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良寛さまの宿

馳せる思いは残ったまま

 友の年賀状の知らせをもとに、松本で泊まられた良寛様の宿を尋ねてみた。

 天明5年(1785年)4月29日に行われた母の三回忌追善法要に、師の国仙和尚とともに出雲崎に帰った良寛さまは、帰途善光寺に立ち寄っている。国仙和尚63歳・良寛さま28歳であった。
 善光寺参詣のあと、松本経由の善光寺街道から中山道を経て岡山に戻られたと見当をつけていたところへ、松本での宿泊先が分ったとの知らせが入った。

 松本での宿泊先は、今の美ヶ原温泉・細かくいうと湯の原温泉の「石川旅館」であった。慶長5年創業の老舗旅館であり、当時はこの旅館一軒のみだったらしい。
 某日尋ねて話しを伺うと、先祖からの言い伝えで確かに宿泊されたとのことではあるが、残念なことに大正末期の大火により一切それらしき物は残っていないとのこと。言い伝えの中では、旅の静養を兼ねて一週間から10日くらい泊まられたとも。

 しからば善光寺から松本までの足取りをと思い、先ずは善光寺事務局に寄ってみた。
 善光寺年代記の中に数行の立ち寄られた記述はあったが、実は残念なことに、ここも1874年の善光寺大地震で宿坊の殆どが倒壊炎上してしまった上に、明治24年の大火で古いものは全く残っていないとのこと。

 次に麻績宿をひとつの宿泊地と見当をつけて、麻績村教育委員会に寄ってみた。しかし、郷土史の専門家に問い合わせでももらったが、そのような形跡はないとのこと。
 但し、旧本城村の花顔寺に国仙和尚の筆による額があるとのことなので、早速寄って話しを聞いてみた。住職の話しでは、その折に立ち寄られて書かれたものかどうかは分らないが、恐らく檀家が高名な国仙和尚を慕い尋ねて書いてもらったものであろうとのこと。書かれた場所は、あるいは松本の宿泊場所であったかもしれないとも。
 額には「白梅山」としっかりしたためられ、国仙書の脇には押印もあった。

 奈良井宿のことも書いておきたい。ここも宿泊場所のひとつとして見当をつけてみたが、残念なことに、天保6年(1835年)に大火に見舞われ、それ以前のものは残っていない。

 先に、良寛さまの数多い研究者が調べのつくことは調べただろう。その結果として現在判明していないのだから、私ごときがちょこちょこ廻ってみても簡単に新事実が出るわけが無い。しかし、どこかに必ず見落としや貴重な資料はあるものだから、馳せる思いは消えずに済んだ。
 もうひとつ、僧侶が旅をする時は、同一宗派の寺に泊まることも多いだろう。高名な僧侶であれば、尚更引く手もあるだろう。そう考えると、旅籠を宿泊場所と決めて探すことは手落ちになるかもしれない。さりとて、寺に泊まれば「宿帳」などあるはずがないから、その寺の言い伝えや、何かの揮毫でもない限り跡を追う事は難しくなる。
 息の長い訪ねごとになりそうだ。



 

 


姨捨伝説から

月の名所の元にあるもの?

 歌会始の記事が新聞に載っていなかった。TVでも、ニュースには出なかった気がするけれど。
 今年の御題は「月」だった。
   「姨捨の名を惜しむかな 古きより月の名所の他は問わまじ」
   「姨捨の霞む山塊背に負うて 下る棚田に月鎮まりぬ」 

 こんな歌を投稿すれば良かったかな? 生活感が無いし、理屈っぽくて駄目か!

 「信濃では 月と仏と おらが蕎麦」はよく知られたところ。
 「俤や姨ひとりなく月の友」 
  更科紀行で、名月の夜姨捨山に着いた芭蕉は、姨捨伝説の老婆をしのびこう詠んだ。
 「いざよひもまださらしなの郡哉」
  去りかねた芭蕉が、十六夜も姨捨にあって詠んだ句である。
 「さらしなや三よさの月見雲もなし」
  さらに、十七夜も止まっての句である。
  芭蕉は余程この棚田の月に感じ入ったのであろう。

 ことほど左様にというのも何だが、姨捨はすっかり月の名所(名勝)としてとおっているが、この名所となる元には悲しくも哀れな「姨捨山伝説」がある。と言っても、実際にどうだったのかは尋ねてもみていないが。
 悲しくも哀れな因習から逃れるには、少しでも生活を楽にしなければならなかった。生活を楽にすることが、因習を断ち切る唯一の手段であった。
 その思いと願いが、あそこまでの棚田を築きあげたのだと思っている。
 目に付く処、例えば月見の場所になっている姨捨公園からみる棚田は見事である。しかし、目に付かない隠れた沢筋や山懐までにも棚田は開かれており、一層その思いと願いの必死さが覗える。

 近年、その棚田が荒れている。既に田としての原型を止めないところも沢山出てきている。
 時代の流れだから仕方が無いが、血に繋がる先祖の「必死に生きた証」は、子孫の何処かに、また何かに生かされているのであろうか。
 数年前から「棚田を守る会」のようなものが立ち上げられ、一部蘇ったところもある。いい取り組みだと思う。同時に、「姨捨山伝説」に繋がるものも継承していって欲しいと願う。
 「そんな貧しい思い等引きずりたくない」ということもあるかもしれない。しかし、それはこの地ばかりでなく、国中に共通した民の歴史の貴重な一コマでもあるのだから。

 芭蕉も、姨捨山伝説を胸の中においたから、なおさら月への想いが深まり、去り難かったのであろう。紀行終了後に
 「元日は田毎の月こそ恋しけれ」と詠んでいる。

 
 


 


暮れは暮れらしく正月もまた

不安もかすめるこの穏やかさ

「あちこちにあれこれ加わり気忙しく やっと手にした四日目の朝」
 近しいもの親しいものが集った暮れ正月。息つく間もないその気忙しさも、待っていたこと・嬉しいことだから全て笑みの中。そして、無事を確認し合い成長を見届け、新たな一年に背中を押してやる。いや、手を引かれる方が多くなったかな。
 やれやれこれでと思っても、世間が動き出せばひとりじっとしているわけにもいかない。思い直して期限付きの仕事を引っ張りだし、メガネを掛け代えてパソコンに向かう。

「穏やかな正月ですね」
 これは厳しい寒さの中で、たまたま正月の天気が良かった時の挨拶。この暮れ正月のように、雪もなく季節はずれの暖かさが続くと挨拶言葉にならない。一年をふり返ってこの正月をみれば、「春遅く 夏涼しくて秋長く 冬を置かずに春になるかな」ではないか。来週から本格的な寒さになるらしいから、「春になるかな?」と?マークを付けるべきか。
 異常気象のニュースが絶えないが、本当にここまでくると「穏やかな正月ですね」にも、どこか不安がつきまとってしまう。世界中の皆が「茹で蛙」になっているのが地球環境問題だ。
 加えて我々には、「とても任せておけない政治と官僚と形振りかまわぬ銭餓鬼の世界」がある。今年もまた、怒りの導火線に火がついたままになりそうだ。

 それではあんまりだから、この穏やかな天気を利用して、地獄谷温泉のお猿に会いに行ってきた。
     

 この写真を引き伸ばしてデスクの横に貼り付け、せめて「ゆったり・のんびり・仲良く」の気分を分けてもらうことにした。

 * 元日早々のビッグニュース! ~ 【良寛さまが泊まられた宿が判明した。】 ~
  天明5年4月、師の国仙和尚に従って帰国し、母の三回忌追善に参加した良寛さまは、帰途
 善光寺に詣でた。ここまでは記述があるが、その後どの道を通って玉島の円通寺に帰ったのか
 分らなかった。私は、松本経由の善光寺街道から中仙道を下ったと推定していたところ、松本近
 郊の温泉に宿をとったとの情報を得た。そこで、友人にそれとなく当たってもらっていたら、その
 宿が判明したと賀状に記されていた。~この件に関しては改めて詳しく紹介する予定。
  これをもとに、越後境から岐阜境まで、県内の宿泊場所を探しあててみようか。

 


 

 


 

 


どこへ行った、暮れ・正月

段取りが良すぎたのか

 段取り良く遣ったせいか遣ることが少なくなったのか、暮れの30日に一息つく時間ができた。
あとは、明日神棚を飾り付ければ年取りになる。
 市街地でそれらしい雰囲があるのは、縄手通りの出店のみ。それも、人だかりと言うほどのことはない。街中静かなものだ。 スーパーでは、売れている店とそうでない店の落差は歴然。暮れに来て慌てて売り場作りをしても駄目。日頃から信頼される仕事をしていないと客は寄り付かない。天気が良いから、遠出をしてでも「良い店」に行き「折角の買い物」をしたいのが消費者心理。

 【20年以上前の日経新聞コラム「春秋」に、こんな名文があった。】
 雪の降る音をしんしんと表したのはだれだろうか。夜降り積もる雪の音は、まさにこの表現以外には考えられない。囲炉裏では、たき木がパチパチとはぜる。チンチンと湯のたぎる鉄瓶、柱時計がボーンボーンと時を刻む。
 遠くでボオーッと汽車の汽笛が鳴り、列車が通り過ぎる響きが消えたあとは、小川のせせらぎが強く聞こえた。朝起きれば快晴、雨戸のふし穴からキラキラと朝日がさし込む。吹雪の時、すき間風に悩まされる雨戸が、一転して光りの芸術を演出する魔法の装置と化した。トキを告げる鶏、庭木ではさまざまな小鳥が合唱していた。
 真っ赤なほっぺたをした子供たちが、早くも雪だるま作りや雪合戦に興じる歓声が伝わってくる。やがて北風がヒューヒューと吹き始めると、遊びはタコ揚げに転じ、タコに付けた弦がうなりを発して空をふるわせた。天地はあくまで静けさに満ち、時にバサッと大きな音をたてるのは裏の竹やぶの雪が落ちたもの。指折り数えて待った正月まであと三日ともなれば、近くの家から餅をつく杵の音がもれてきたものだ。
 思えば、いろいろな音があった。貧しいなりに、自然の音、生活の音、それぞれ心にしみた。豊かな日本に変わった今、これらの音はほとんど消え去って跡もない。歳末の餅をつく音さえ聞くことはまれになった。二十四時間、天地を飛び交う電波音、エンジン音の中で、中高年はカラオケに酔いしれ、若者たちはイヤホンの世界に逃げ込む。正月くらい昔の音が聞こえる土地に旅してみたい。

 時間の経過に音と光りの変化や人の動きを乗せた、実に情感溢れる上手な良い文章だと思いとっておいた。「囲炉裏」の三文字を除けば、昭和20年代の私の思い出そのものでもあったから。
 「元日はよそ様の家にいくもんじゃないよ!」と足止めされながらも、昼近くになればそわそわと落ち着かず、玄関からそっと顔を出すと遊び仲間が所在なげに夫々の家の前にいる。目が合えば、ソレッとばかりに飛び出して夕方まで遊んでしまう。誰のポケットにも、餅が3切ればかりと煮干が4~5本入っていた。これで一日中遊べたもんだ。

 先の「春秋」はバブルの絶頂に向かう時期に書かれた文章だが、あれから20有余年。内容を見返せば、さらに暮れ正月の雰囲気は希薄になっている。加えるのは、携帯電話とパソコンとDVDとデジカメかな。なあ~んだ、みんなIT機器・デジタル機器ばかりじゃないか。
 無機質なものに振り回され・追いかけ追いかけられる人間には、しっとりとした季節の情感や「晴れの日」の節目なんぞは関係ないか。
 と言いつつ私も、こうしてブログを立ち上げて3ケ月半になり、書いた記事も実質60を越えた。
その上、来年はビジュアルなものにしようと思っている。
 それでも、守るべきは守り・残すべきは残し、OBの面目だけは失わないようにしたい。

* お付き合い頂いた皆さん、どうぞ良いお年をお迎えください。


 

 


知らぬも又ほとけ?

早速役立った“ものは考えよう”

「コンチワ、え~コンチワ。縁先からごめんなすって、ご隠居さんおいでですかい?」
 何だね、朝から賑やかに・・・。おや、誰かと思ったら留さんかい。暫くだね~
「ヘイ、ご無沙汰で申し訳ございやせん、ちょいと、遠出をしておりやして・・・。これ、つまらん物ですが。」
 おや、いつも申し訳ないね、ありがとう。で、何だね今朝は?
「ヘイ、先ずはご無沙汰お詫びのご機嫌伺いでござんすがね。
それと、先だってご隠居さんに“ものは考えようで明るくも暗くもなるからしっかりおしよ!”ってハッパ頂きやした。それが早速役立ちましたので、そんなお話しも」 ←12/23のブログ記事を参照ください。
 そりゃまた、ご丁寧な。
「伊那のはずれにアッシの兄貴分がおりやす。いつかお持ちいたしやしたあの饅頭を作っているオヤジなんですがね。それが、ここのところトント便りが絶えておりやしたので、“便りのネ~のは無事の証拠”と思いながらも気になったんすが・・・。
 それも随分になりやすんで、人を頼んで訊きやしたところ、何と丁度二年半前に仏になっておりやした。他ならぬ付き合は二人の息子もよくよく承知をしておりやしたのに何て~ことだ! と頭にきましたが、死んじまったものはどうしようもござんせん。例え、葬式に行ったとしても同じ事でござんしたから。
 今日行って線香をあげてきましたがね。しみじみ位牌に向かってみますとね、仏になったのを知らなかったからこの二年半、兄貴が生きているつもりでオイラは過ごしてきたわけで、その分ほかの誰よりも長く一緒に居られたんだと考えちまったんすよ。そう思ったら、頭の血も下がって何だかちょっぴり幸せな気分にもなりましてね。」
 留さん、あんたらしい優しさだよ。よくそこへ気持ちを持っていったね。
「これもご隠居さんのお陰で・・・。でもね~ご隠居さん。こいつとでなけりゃ通じない話しってもなぁあるもんでして、もうそんな話しができねぇって思ったら寂しくなりやして、おいらも人の子、つい涙を拭いちまいました。」
 そういうもんだよ・・・。この歳になるとね、そんな事がしょっちゅうだよ。でもね、長く生きた分、沢山の土産話が持っていけると思えば、ソレそこは今日の励みにもなるというものじゃないかね。
「ありがとうござんす。ご隠居さんに聞いてもらうと、荷が下りるばかりじゃねぇっすが、気持ちも楽になりやすし、また明日!という気にもなりやす。」
 お茶を淹れなおそう。
「いや、もうたくさんで。これから、松を採りに山へいってきやす。ご隠居のところの分はいつものとおりでようござんすか?」
 すまないね~、ありがとう。それと留さんや、ご隠居さんはよしとくれよ。確かに息子に仕事は任せているけれど、お前さんとは大して違わない歳なんだから。他の人はいざ知らず、お前さんにご隠居さんと呼ばれると、何だか早く老け込むような気がするよ。
「それはどうも! これからは気を付けやす。それじゃぁ、ごめんなすって、ハイご隠居さん!」

 享年76歳、まだまだ一緒に高笑いできるはずの人だった。 合掌

 


ブログの自衛保管

いや~疲れました!

 何だか素人には良く分からないけれど、文章を書いて「保存キー」を押すと、何処か遠くに行ってしまう。後に残るは、白紙の画面か何とやらのメッセージのみ。これが1度ならず2度3度と続くと参る。
 そこでこの数日は、折角の文章だからと他の処にコピーする作業を続けていた。

 ついでに文章整理をしていたら、ホッとしニヤッとする良い文章が出て来たので、よそ様のもので申し訳ないが、折角だし良いものだから紹介したい。
 5~6年前ではないかと思うが、朝日新聞の「声」欄に載っていた文章である。
 帯広市の元教員の方だ。

 「考えてみれば良い事尽くし」
 冬は寒いのが良い。みんな集まってくるから。 夜は暗いのが良い。星がとてもきれいだから。
もちは正月が良い。少しあれば正月気分になれるから。 ごぶさたも良い。久しぶりで会う喜びが倍加するから。 薬は飲まないほうがが良い。飲んだら効くから。 年老いていくのも良い。みんなが親切にしてくれるから。
 男も女もあまり裸にならないほうが良い。お互い持っていないものにあこがれるから。 手紙は下手なほうが良い。もらったほうが優越感を感じるから。
 子供は生意気で良い。智恵がつくのだから。 料理は簡単なのが良い。自然の味がわかるから。 男は無口なほうが良い。女をたててやれるから。 少しアホと言われるほうが良い。何でも教えてもらえるから。
 政治の悪口はどんどん言ったほうが良い。どうせ聞く耳なんて持っていないのだから。 金はあまり無いほうが良い。誰も盗もうとしないから。 テレビは消しても良い。考える時間が増えるから。 食料は足りないくらいで良い。食べ過ぎて病気になる人種がいるというから。
 書いてみるのもこれくらいで良い。あとはみんなで、それぞれ考えてくれるから。

 あと1週間で正月が来る。何だかんだといいながら、この1年が終る。
「命」の字も分るし「差」の字も分る
1年だ。しかし私には、加えて「怒」の字が引き続いて纏わりついている。
「考えてみれば良い事尽くし」にならい、これから出かける本夕の会も、見方を変え考え方を変え交わり方を変えた「忘年快」にし、さっぱりしたところで新年を迎えようか。

 この記事が丁度60記事めだそうだ。
 60といえば、それは還暦じゃないですか。
 次回の記事から、また新たな気持ちで書き綴りましょう。
 (今日は、「保存」出来るかな?)
 
  


七五調の起源

いささか遡れたか

 我が身にも染み付いている古来の七五調は、何時ごろが起源なのか、どういう経緯があったのか気になるところであった。大体言葉は文字と結びつかないと残らない。和歌は古よりの日本の詩歌形であり、万葉集は万葉仮名だから、その漢字渡来以前に遡ることは想像できていた。

 たまたま古代文字を調べている中で、ヲシテ文献の「ホツマツタエ」の一節に興味をひかれた。
  フタカミノ  オキツホニイテ クニウメト  タミノコトハノ フツクモリ  コレナオサント
  カンガエテ イネナナミチノ アワウタオ カミフソヨコエ イサナギト シモフソヨコエ
  イサナミト  ウタイツラネテ ヲシユレハ イタニネコエノ ミチヒラケ タミノコトバモ
  トトノエハ   ナカクニノナモ アワクニヤ
【フタカミ(イサナギ イサナミ)が七代アマカミに即位したのはオキツホ(琵琶湖西南岸の日吉神社とする説が有力)でのことであった。ここで国境の確定などの取り決めが行われた。この時問題になったことに、タミの言葉の混乱があった。そこで五根七満(五七調)のアワウタが制定され、国語の再整備再構築の基本として流布させてゆき、タミの言葉の精緻さの向上がもたらされた。アワウミ(琵琶湖)を望み見るオキツホで制定されたアワウタであることから、ナカクニ(今の畿内地方)の別名としてアワクニの名称も起きた。~池田 満著 「ホツマツタエ」を読み解くより】

 この一説から、四つのことに気付いた。
 一つは、五根七満(イネナナミチ)という七五調が、弥生時代以前からこの国の語調としてあっただろうこと。二つめは、時の権力者(クニカミ)の力をもって、統一語調として国中(クニナカ)に広められたこと。三つめは、それを受け入れる素地が国中にあったこと。四つめは、次のことである。
 
 万葉集3254 「磯城島の大和の国は 言霊の助くる国ぞ 真幸くありこそ」の、“言霊の助くる国”の意味合いである。
 言葉そのものに霊力があるとして、立派な和歌・上手な和歌を詠むことにより、その霊力をもって願いが叶うとしたのが言霊信仰だが、「助くる」の中に上記二つめ・三つめが含まれているのではないかと。
 水稲耕作の普及はタミに安定した生活をもたらし、同時に国力を増すことに繋がった。従って、水稲栽培普及指導はクニカミ最大の事業行為であり、タミにとっては待ち望むところでありクニカミに対する信頼、そして従属の最大要件であった。
 五根七満による水稲栽培普及指導は、まさに言霊(言霊の助くるところ)そのものであったのではなかろうか。

 これにより、古墳時代を数千年?遡って起源を訪ねたことになる。しかし、七五調発生のところへはまだ行き当たっていない。
 そこで、いまのところの想定の範囲であるが、
1.大和言葉(日本語)は、アイウエオの五つの母音をもとに成り立つ、歯切れの良い表音語(文
 字)であること。単音語の連結で言葉が出来ている。
2.文字が出来る前は、話し言葉(語り)で自分達の歴史や特別な出来事を伝承したこと。
3.語り伝えを担う者は、相当な権威を持っていただろうこと。
4.語り伝えるには、リズミカルであれば覚えやすい・話しやすい・聞きやすいということ。
5.五文字の連続では単調になる。そこでで、次の収まりの良い語数はというと七であること。
6.語るリズムを
4拍子にとれば、初句の頭以外は一拍めの8分休符が息継ぎになり、七五調の
 五であれ七であれ2拍めの前に言葉の頭が来る。これにより、ポンと調子を入れて2音1拍のリ
 ズムをとれば語りやすくなること。
  5文字の場合~〇〇〇〇◎■ (〇は8分、◎は4分で1拍、最後の■は4分休符)←これを4
 拍で語る
  7文字の場合~▲〇〇〇〇〇〇〇 (最初の▲は8分休符)←これを8拍で語る
7.五・七の奇数には、別にも特別の意味合いを感じ・持たせてきただろうこと。
 等などが重なり合って、何時からかは分らないが、ごく自然発生的に、改まった場での大和言
 葉の語調として七五調が生まれて来たのではないかと思う。
  
* これ以上は言語学者の範疇なので、素人はここまで。

 

 


郷土の潤滑油

市民タイムスが面白い!

 市民タイムスが創刊35周年を迎えたとのこと。ほぼ同期間の読者としてはご同慶に耐えない。
 創刊時からすると「隔世の感」であるが、それは何も体裁ばかりでなく、内容の充実度と生活への密着度からそう思う。

 朝日新聞は記憶にある昔からとっていた。現役時代は、そこに日経・読売が加わっていた。
 日経は業務上必要であったし、読売は朝日との対比が面白くて読んでいた。
 日経の「春秋」、読売の「編集手帳」のコラム欄は捨てがたかったが、今は朝日と市民タイムスで十分な生活になっている。

 「市民タイムス」が大きく部数を伸ばしたきっかけは、他紙にさきがけて「お悔やみ欄」を作ったことだと聞いたことがある。その真偽はともかく、「地域に密着して暮らしの諸事項を記事にする」という基本姿勢が今日を成したことは確かであろう。
 
 大町市から塩尻市、そして木曾地域まで、私の主たる生活グランドの日々の様子が良くわかる。無論、直接関係ないことが殆どであるが、同じ空の下、同じ空気の流れの中に居る人々の息遣いや躍動振りを知ることは楽しい。また、時にはひとつになって心配することもある。
 変わったイモやトマトが採れた、キノコの収穫情報、猿や熊や渡り鳥の話しもある。
 自由な広告欄も用意されていて、開店・求人広告から仕事請け負います。また差し上げます・下さいや住宅・くるま情報も載る。
 楽しいのは、なんと言っても地域のグループ活動や活躍する個人の紹介である。知己を得ていないところの出来事であっても、ついつい頬を緩めて見入ってしまう。
 そして、誰もが目を通すのは「お悔やみ欄」であろう。この欄のお陰で、消息を知ることもあるが、義理を欠かさずに済んだことも、一度や二度ではない。

 しかし、このバリバリのローカル紙が単なる「かわら版」に終ることなく、確実にこの地域に根を下ろし得たのは、
いくつかのコラム欄とシリーズもので維持されている「その質の高さ」ではないだろうか。
 「みすず野」は、この頃の「天声人語」より読みやすく、的を外さない内容で感心する。
 「口差点」は読者の投稿欄で50代以上の方の投稿が多いが、心を熱くさせられたり穏やかな気持ちにさせられたりで、必ず目を通すところだ。
 「その他のコラム」も、この地域に関係した方々が夫々の立場から思いを綴られており、勉強になる。
 一つ難を申せば、「みすず野」と「月見やぐら」の棲み分けはきちんとした方がいい。「月見やぐら」は、現場に立った記者の感覚そのものの方が臨場感がある。

 シリーズものは、「しののめの道シリーズ」や「安曇野シリーズ」のような大型シリーズは無論であるが、例えば古跡を訪ねたり小径を紹介したりのシリーズも捨て難い。
 いずれも改めて、故郷の故事来歴から世情との繋がりまで教えてもらっている。
 大型シリーズが出版に結びつくのは当然であるが、規模の小さなシリーズも、シリーズ毎でなくてもいいから、うまく本に纏めて貰いたいがどうだろうか。

 「臼井吉見の安曇野を歩く」は、けだし大作だと感心しつつ楽しみにしている。改めて「安曇野」を開き、何度も読み直しているくらいだ。一読者として「安曇野」を通読しただけでは是だけの背景は分らないし、関わる現地の様子を知る由も無い。
 是非とも、今後もこういう取り上げ方で故郷を掘り下げつつ紹介して欲しい。

 いわゆる三面記事・事件記事・経済記事・広告記事だけのローカル紙なら、ここまでの地位は確保出来なかったであろう。
 その地位とは、勿論読者の支持である。
 いずれにしても、この地にこのローカル紙「市民タイムス」があることは自慢できる。間違いなく、この地域の潤滑油になっているから。

 

 


 
 


 


買い物難民

環境・状況に合わせて・・

 今朝の市民タイムス(ローカル紙)に、駅前のスパーマーケット【エースワン】が来月半ばで閉店との記事が載り、特に高齢者の利用者の声として「買い物するところがなくなってしまう。安い買い物が出来なくなり生活が圧迫される」等が寄せられていた。

 確かに、上土町近くのセーフー(旧ササイ本店)・六九町のアカギヤと市街地のSMの閉店が続いている。この2店とも市街地総合食料品店の草分けでもあった。
 エースワンは“安売り”を看板にした「西源」の店であるから、そうしたことからも存続希望の声があるのは分る。

 SMに限らず今の店舗展開は、車移動を前提に広域商圏をターゲットにしているから、勢い駐輪場も駐車場も無い店舗は苦労する。その遣り繰りにも限度があるから、行き着くところは閉店になる。
 他の店に移動できる人(層)はまだ良い。困るのは、徒歩や自転車で買い物していた人だ。
 閉店と同時に、買い物難民になってしまう。

 開智にある小規模SMも、閉店の話しが出た時があった。この時は、周りの住民の存続希望の声が聞き入れられて閉店をまぬがれた。以来、意識して足を運ぶ人が増えたそうだ。
 しかし、これは稀な例である。
 経営する方としては、採算のとれない事業は存続できない。多額の投資をしても再生不可能と判断したら事業を
中止せざるをえない。

 今の頃閉店を余儀なくされているSMも、過っては町の八百屋・魚屋・肉屋・雑貨屋廃業の一因になっていた。
 いや、SMでの買い物に走った消費者も、町の商店廃業の一因を負っているかも知れない。
 買い物行動の変化を余儀なくされるのは、時代の流れで仕方が無いのだ。これは当然生活形態の見直し・構築のし直しにも繋がっていく。
 しかし、それでは「買い物難民」に対し、余りにも冷たいのではないかと叱られるであろうか。
 やがて車を動かせなくなる我が身でもあるのに。

 考えるまでもなく、街中に住んでいるから改めて「買い物難民」なんて言葉が出るのだ。
 広域松本市で見れば、「買い物難民・通勤難民・通院難民エトセトラ」地域で暮らしている人だって多い。その人達に、「ここはもともとが生活不便地域なんだ」と言われれば答えようがなかろう。
 身近に手ごろな店は在ることが、恵まれすぎていたと言えるのかも知れない。
 それに比べて、一方で不便を生活しやすさに解釈して「工夫をし、あるものを利用し生活を維持してきた」その智恵を手本にし、早く新たな生活形態を作り馴染むことが大切ではないか。
 こと毎日の食料に関することだから大変なことは大変だが、早く次の手を講じないと干上がってしまうし、いつまでも街中に暮らす便利さに浸っていると、「茹で蛙」になってしまう。
 このことに関しては、行政対応の枠外でもあるし。

 と、ここまでは新聞記事を見て思ったことだが、それにしても「高齢者の生活自律を前提にした生活支援」も欠かせないことだと改めて思う。
 その点、農協は良くやってきたし良くやっている団体だ。
 過って山間地までSMを作り、生活向上に寄与した。これが存続難に陥ると宅配サービスを強化した。組合員対象とはいうものの、健康管理から始まり、あらゆる生産・生活面で支援している。
 生協も、生活物資中心ではあるが広く活動している。

 「先ずは自律」ではあるが、「協同の場における共同・協働による相互支援」も選択肢のひとつだろう。
 残念なことは、街中にはこうした「共同・協働による相互支援の形」があることを知らない人が多いことだ。また、そうした意識も持ち合わせてこなかった。
 高齢者層が厚くなり、その消費経済力の割合も大きくなっていくのだから、生活全般を捉えて活動する新たな場を考えてみる時期かも知れない。
 市街地商業の空洞化対策の一環としても、何か有効な気がする。

 
 
 
  
 



 
 


美味すぎる!このコーヒー・・。

これがコーヒーなのか!

 「まるも」のコーヒーに触れたついでに、美味すぎるコーヒーのご紹介。

 東山山麓線の崖の湯口信号を左手(松本に向かって走ってくれば右手)に折れた丘の上に【カフェ ビエンツ850】がある。およそ場違いなしゃれた造りの建物がポツンと建っているから直ぐ分る。

 この秋口に、思いがけなく1枚のはがきが届いた。

ハガキつうしん ゆめへんろⅡ 秋風号
  ~cafe Vients850 三年目へのご挨拶~
 松本市南端の高台を吹き抜けるアルプスおろしの自然の風と、
皆様からの多彩な風韻に励まされて、ビエンツも三年目に入ります。
ご来店くださったその後もお変わりなくお過ごしのことと拝察。
私も元気で喜寿を迎えました。これからも、一歩一歩、夢の途切れ
ぬ毎日を楽しむつもりです。さて、店のその後ですが、コーヒーの
味が「格別においしい」との評判を戴いており、皆様に感謝して
おります。元々が(コーヒー豆の数産地を記載)も、一見して最高
レベルの品と判る生豆ですから、この生豆達が秘めているおいしさ
の能力を出来るだけ引き出す工夫を重ねれば良い、との意を強くして
おります。
  私の最近の生豆の煎り方は、(独自の煎り方を記載)しております。
 過酷な条件下で、これ等の生豆を生産される異国の農民諸氏の苦労に
思いを馳せ、これからも丁寧に手焼焙煎して淹れて味見して、口にされる
方々がおもわずニコッとされるような・・・。
 今年に入り、信濃毎日新聞社様が、面映くも“人間紀行”と題してカラー写真
入りの大きなスペースで、また、読売新聞社様は、“ほのぼのタウン”の囲みで
主に私の心底にあるものを報じてくださった事で、以後、お客様ゼロの日が
劇的に減っております。真に嬉しいことでした。
 三年目からは、(新たなメニューを記載)準備をすすめております。
 またの日、ゆったりとお立ち寄りのほどを。快い音楽(当面は抜群のシャンソン
奥田晶子)と、美しい風景と共にお待ちしております。      店主

 東山山麓線を走っていて、たまたま何気なく立ち寄った店である。
 ところが、淹れてもらったコーヒーを口にして驚いた。今まで飲んできたコーヒーと全く違うのである。
 カップを口元に持っていくと、コーヒーの良い香りが「上質の香」のように鼻腔に広がった。
 ウン? と思ってコーヒーを口にすると、口中に染み込むその味わいの深さに表現する言葉が見つからなかった。
 これは違う! 美味すぎる! 全く未知のコーヒー体験であった。
 以来、街中でコーヒーを飲むことがめっきり減った。また豆の切れ目もあって、わが家でコーヒーを淹れることもなくなった。そのことだけでも、いかに喜びと嬉しさのショックが大きかったかが分る。

 店主は相馬さんとおっしゃって、現役時代は東京で教員をなさっていた。
 50代と60代の初めに大病に罹り、これを克服した時点で、余生は趣味のコーヒー淹れを広く提供したいと開店の決心をなさったとのこと。
 教員時代に下宿していたところがコーヒー店で、そこで「しっかりコーヒーにはまり込み」、あらゆるノウハウを身につけるとともに、趣味のひとつとなって独自の道をも切り開いたらしい。
 評判は広がり、職員室では同僚のリクエストに応え、もっぱら淹れ方にまわったとも聞く。

 店のある場所は親ごさんの土地であり、ご自分の家と家族を東京においての二重生活の中ではあるが、出発点が出発点だからその頑張りも生き生きと爽やかだ。

 趣味が高じたうえでの、また思いをもっての開店だからこだわりがある。
 「味がもうひとつ引き出されていませんので、淹れ直します」~これは勿論コーヒーへのこだわりである。何種類ものコーヒーメニューがあるが、まずは「東チモール」をオーダーしてみると良い。この店の味の違いが良く分かる。それにもうひとつ。「淹れ方はエキスト」で・・・と付け加えると、全く別物のコーヒーが出てくる。「エキスト」とはなんぞや? その講釈は相馬さんにお任せするとして、いわく、「コーヒーで口中を染めるように、少しづつゆっくり味わって下さい。豆の個性が味わえる淹れ方です。」
 「スピーカーは東京で聴き比べ、松本で聴き比べてこれに決めました」~これは音へのこだわりである。木を使ったログハウス風の店だが、この店の造り全体がスピーカーボックスになっている。
音の透明さ、歯切れのよさ、柔らかさ、抜けのよさの中で、高音も低音もしっかり残る。CDをかけてはいるが、むしろ生演奏の趣さえする。

 眼下に広がる松本平から北アルプスを眺望し、決して耳障りにならない音楽に身体を包み、どこにも無いコーヒーを口にするのは、まさに至福の時である。
 「こだわりの第二の人生」に生きている相馬さんと話していると、さわやかな潔ささえ伝わってくる。とても喜寿を迎えられたとは思えない。
 この上には、来店客が多くなっていけば万歳だろうし、商いとして道がつけられればそれにこしたことはないだろう。
 ちょっと離れた場所だが、一度立ち寄ってみる価値は十二分にある。常連になるかならないかはその後だ。

 そんな訳で、営業日・営業時間の案内も大変だ。
   オーダー時間 9:30~15:00~18:00但し春夏は~19:00
   休業日     毎週木曜日(祝祭日を除く)
             毎月25日~月末(時には翌月2日まで)4・7月を除く
             毎年1月・2月3月初旬まで
             但し、土・日・祝祭日等、気まぐれ営業日あり

 住所 郵便番号 399-0023 松本市内田 3230
     電話    0263-57-4463      2007年6月2日 素晴らしいホームページが開設されました。詳しくはそちらへアクセスのほどを。http://cafevients850.hp.infoseek.co.jp/

 

 

 

 

 


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