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良寛さまの宿

馳せる思いは残ったまま

 友の年賀状の知らせをもとに、松本で泊まられた良寛様の宿を尋ねてみた。

 天明5年(1785年)4月29日に行われた母の三回忌追善法要に、師の国仙和尚とともに出雲崎に帰った良寛さまは、帰途善光寺に立ち寄っている。国仙和尚63歳・良寛さま28歳であった。
 善光寺参詣のあと、松本経由の善光寺街道から中山道を経て岡山に戻られたと見当をつけていたところへ、松本での宿泊先が分ったとの知らせが入った。

 松本での宿泊先は、今の美ヶ原温泉・細かくいうと湯の原温泉の「石川旅館」であった。慶長5年創業の老舗旅館であり、当時はこの旅館一軒のみだったらしい。
 某日尋ねて話しを伺うと、先祖からの言い伝えで確かに宿泊されたとのことではあるが、残念なことに大正末期の大火により一切それらしき物は残っていないとのこと。言い伝えの中では、旅の静養を兼ねて一週間から10日くらい泊まられたとも。

 しからば善光寺から松本までの足取りをと思い、先ずは善光寺事務局に寄ってみた。
 善光寺年代記の中に数行の立ち寄られた記述はあったが、実は残念なことに、ここも1874年の善光寺大地震で宿坊の殆どが倒壊炎上してしまった上に、明治24年の大火で古いものは全く残っていないとのこと。

 次に麻績宿をひとつの宿泊地と見当をつけて、麻績村教育委員会に寄ってみた。しかし、郷土史の専門家に問い合わせでももらったが、そのような形跡はないとのこと。
 但し、旧本城村の花顔寺に国仙和尚の筆による額があるとのことなので、早速寄って話しを聞いてみた。住職の話しでは、その折に立ち寄られて書かれたものかどうかは分らないが、恐らく檀家が高名な国仙和尚を慕い尋ねて書いてもらったものであろうとのこと。書かれた場所は、あるいは松本の宿泊場所であったかもしれないとも。
 額には「白梅山」としっかりしたためられ、国仙書の脇には押印もあった。

 奈良井宿のことも書いておきたい。ここも宿泊場所のひとつとして見当をつけてみたが、残念なことに、天保6年(1835年)に大火に見舞われ、それ以前のものは残っていない。

 先に、良寛さまの数多い研究者が調べのつくことは調べただろう。その結果として現在判明していないのだから、私ごときがちょこちょこ廻ってみても簡単に新事実が出るわけが無い。しかし、どこかに必ず見落としや貴重な資料はあるものだから、馳せる思いは消えずに済んだ。
 もうひとつ、僧侶が旅をする時は、同一宗派の寺に泊まることも多いだろう。高名な僧侶であれば、尚更引く手もあるだろう。そう考えると、旅籠を宿泊場所と決めて探すことは手落ちになるかもしれない。さりとて、寺に泊まれば「宿帳」などあるはずがないから、その寺の言い伝えや、何かの揮毫でもない限り跡を追う事は難しくなる。
 息の長い訪ねごとになりそうだ。



 

 


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ponpei

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by ponpei (2007-08-29 10:47) 

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