山はそこに在るだけ
高さも美しさも見る人しだい
先日TVで、日本人の公徳心欠如を取り上げていた。
国宝への落書き、自然遺産への破壊的傷つけ、公共物が受ける損傷、ゴミの投棄等など。
「私」を大切にするほどには「公」を扱わない。人目が有ると無いとでは、やることが違う。
人目がないと(自分が特定されないと)、相当なことをしでかす。しかし、最後の尻拭きは常に「公」を頼る。
「何とも言えない嘆かわしさ」との向きを話したら、「日本ばかりじゃない。大方の国も同様だし、もっとひどいところもあるさ」との返しがきた。それを知らぬでもないが、横並びで見ることも、ましてや下を見て安心することでもない。
そこで、このDNAはどこで身に付けられたか話した。アルコール含みの割には、なるほどと思わせるやりとりになった。
三人で話すのが一番盛り上がる。二人でも四人でも駄目だ。
2時間を要約すると、
「貧しさ(経済的・文化的・精神的)故に染みついたものである」 これは直ぐに口の端にあがった。 しかし、現在憂慮されている文化的・精神的貧困からは分らぬでもないが、長い日本の歴史の中で、どれをとってもDNAとして身に付くほどの貧しさが続いてきたとも思えない。
「豊かさ故に染みついたものである」 これはかなりの説得力があった。
豊かさとは、自然の豊かさである。水が豊富、緑が豊富、魚が豊富、海に囲まれている、四季が実りをもたらすetc・・・。
三尺流れれば水清し、だから川に物を流す。水と空気は無料・無尽蔵、だから扱いが粗末。四季が生物を再生してくれる、だから根こそぎとってしまう。
こうしたことが許される環境がいつ頃まで日本にあったか分らないが、「再生」を当たり前のこととし「保全」を意識せず使い放題・捨て放題で暮らしている内にDNAが形成され、環境が変わり新たな意識や価値観が求められても100%順応できない部分が残ってしまったというのだ。
「厳しい自然環境にないから身につかなかった」 これも分る。豊かさの反対かもしれないが、厳しさを知らなければ真の豊かさは分らないから別問題だ。
砂漠に住めば、水は命そのものである。荒涼・酷寒の地に住めば、緑は生命の象徴であろう。
環境の厳しい国に出来る規律は極めて厳しい内容になるし、厳しい規律がなくても規律に依らずとも、自ずから自律の精神が身についていく。
「国境を接していないから、善きにつけ悪しきにつけ他人と比較できないできた」 つまり、同質性民族で過ぎてきたからだという。だとしたら、この100年間に学んだことはなかったのか。
「国も貧しかった」 確かに、公害が取りざたされ法規制の網がかけられたのは、そう遠い昔のことではない。国は国民の集まりだから、国民のDNAは国のDNAにもなりうるわけだ。
「目先、自分・今・金だけで生きているからだ」 これも分る。その次の繋ぎは「怖いものがなくなっている。昔は、地震・雷・火事・オヤジとその上に神様がいた」
確かに!
落書きや器物損傷にみる公徳心欠如の話しが「国や神様」の段階まできてしまったので、“まあまあ、この辺にしとけや”ということで収められた。
最後は、絶対に会費負けのしない釣り好きのオヤジの一言が効いた。
「山ってのは海から見れば高いけんどさ、本当の高さは登ってみなけりゃ分らんもんさ」
なるほど山はそこに在るだけで、高さや美しさは見る人間のこころしだいというわけ。環境やDNAはどうあれ、保全・再生の目と心を個々人が持たない限り本物にはならないというわけだ。
「じゃ~、個々人に目と心をもたせるにはどうするの?」と訊きたかったが、それを切り出すと日付が変わりそうなので止めた。
*山紫水明は松本の宝だ。山紫水明に抱かれて街中も住居地もあるから一体のものである。
外来者の多いこの豊かな地を保全・再生し続けるには、先ず市民がそのための目と心をもって
環境をつくりあげ、好ましからざる手の出ないようにしておかねばならないのだが・・・。
【 やすけきは 今にかわらぬ故郷の 朝な目にする その彩に】
豊かさとはやはり「心」を物差しにしてであって「物」を物差しにしたら心はひたすら貧しくなるような気がします。
「心だけ」では進歩は止まるので両方そろって豊かにならないと駄目でしょう。
by Rudo (2006-11-30 14:28)
「心の時代」と言われるようになって久しいのですが、そう言われるようになって右往左往するようになりましたね。大和魂が定まっていませんでしたから。
by sangaku徒 (2006-11-30 14:37)