SSブログ

大和ごころのDNA

無意識のこころを生む

 いわゆる「善」の方向に心が向かうのに、
“無意識の内”ということは有り得ないことではないかもしれないが、私ごとき凡人には考えられない。何時か誰かに、あるいは何処かで何かに教えられているはずだ。
 ただ、その教えを素直に受け入れた“感受性”には、生まれながらに備わっている何かを感じてはる。
 それが日本人という括りでみてみると、漠とはしているが共通のものがあるような気がする。それこそが日本人の「大和ごころ」のDNAではないか。

 一昨日は良寛様の「戒語」を借りて、平素の人間関係の基になる“身持ち”のDNAを探ってみた。
 昨日は神・仏を借りて、日本人固有の“信心”のDNAを探った。
 今日は武士道を借りて、“身を処する”うえでのDNAを探ってみる。

【四季の美がもたらす心の一端】
 「敷島の 大和ごころをひと問わば 朝日ににおう 山桜花」
 知られた歌であるが、パッと咲いてパッ散る潔さだけに引用されてはもったいない。
 咲くその季節 ・さまざまに変わる色合い ・淡く降り懸かる匂い ・小さな花がお手玉のような塊になり、またそれが集まって花の木を成す見事さ ・西行法師が歌った霊感などなど、桜木を観る日本人は、それぞれがそれぞれに深い思いを寄せ特にこの花を愛でている。
 歌によみ、詩に残し、小説に書き、絵に描き、写真に撮り、宴を開いて花とひとつになりと、自分に出来る手立てを講じて自分の中に取り入れようとしてきた。
 ここにも、大和ごころに通じるDNAがある。

【言霊に向かう心】
 レデイース&ジェントルマン、日本語表記なら紳士淑女。この紳士淑女の呼びかけには、どうもピンとこない。 かの国々では、ひとかどの成人男女を指して紳士淑女と呼ぶようだが、日本ならさしずめ武士貞女。「武士(さむらい)の様な男気のひと、まさに大和撫子」と評された方がその人と成りがピンと来るし、言われたほうも満更でもない面持ちになる。
 様々な場面で「愛している・・」が連発されているが、「いとしい」という方が気持ちが汲める。
 やはり、外来語よりも大和ことばの方がこころに染みくるのだ。
 仏教伝来から始まり多くの外来語を消化してきた日本人も、大和ことばに対する感性は無意識の内にも持ち続けている。言霊の幸く国の民である。
 ここにも、大和ごころのDNAがある。

【武士道】
 繊細な美感を形に残したのが公家衆であるならば、枯淡の美感を残したのが茶人であろう。
 では、武士は心の中に何を残したか。
 それは、自らの生きざまと儒教の教えを踏まえた、「恥と至孝の心構え」であると思う。
 「恥を知る・恥を知れ」は、時に欲望や本能までも抑えて自分を律する場面に繋がった。
 「孝」の字は忠孝として、孝行と忠義を説いた。
 「恥と孝」、これを今にみれば、
 「恥を知る・恥を知れ」は日本人の自負心であったはず。「公に対して恥ずかしいこと」も勿論だが、「自分に対して恥ずかしいこと」が厳しく問われた。
 改めてここが思い出されれば、阿倍さんが旗を振らずとも日本は「美しい国」になる。
 忠孝は曲がって戦に利用されたから今や死語に近いが、「孝行」を開けば人を傷つけ・殺すことはなくなるだろうし、「忠義」を開けばその任にあたるものが席を汚したり悪事の脇道に逸れることもなくなるだろう。
 武士の台頭は平安時代からかもしれないが、武士道に繋がるものはもっともっと日本国の歴史を遡れる。
 有史以前の時代でも、危険に立ち向かう時、また家族・一族を守る戦いにあたっては相当の心根で向かっただろう。見送る者はその姿に何を見たか。行く者は見送る目を見て更に何を感じたか。農耕の始まった時代になれば、戦うということは極めて特別なことであり、行くその姿は強烈に焼き付いただろう。行く者も更にである。
 鎌倉・室町になればそこに武士の文化が加わり、その中には精神的なものが整理され加わる。
 武士の武士たる姿と動きは多くの人々の知るところとなり、一方で民の評価も受けたであろう。
 こうした中で、武士道は武士だけのものではなくっていったのではと推察する。
 折角武士道の名を借りても、これだけではその真髄を突いてはいないだろう。が、これだけのことを呼び戻しただけでも、大和ごころのDNAが掘り起こされ気がする。

 *この地の大和ごころ
  山岳・学問・音楽の三ガク都の松本だ。しかも、城下町である。
  盆地の中で息を潜めていては分らないだろうが、これほど「大和ごころ」をものにする条件の揃
 った所はない。
  諸事開催にあたっては、この「大和ごころの魂入れ」を意識していったらどうだろう。

【余談】
 戸田氏松本城主時代の享保10年(1728年)から文政5年の94年間に、133人が死罪になっている。但し、その内43年間は執行していないから、51年間に133人、年平均2.6人である。
* 刑罰の内で死罪対象の罪名の中には、これなら今では死人だらけというものがある。
 似せ薬を売り候者                   ~引き回しの上死罪
 金子入りの書状・請けとり、道中にて切り解き遺捨て候飛脚・金子の多少に依らず ~同上
 密通致し候妻 妻・妾の別なく            ~死罪
 密通の男                         ~死罪
 片輪もの所持の品を盗み取り候もの          
~死罪
 車を引掛け人を殺し候時・殺し候方を引き候もの ~死罪
   但し、人に当たらざる方を引き候ものは     ~遠島
       車の持ち主は                  ~重き過料
       車引き家族は                ~過料
 家庭内暴力・親に切りかかり打ちかかり候もの  ~死罪
 火をつけ候もの                      ~火罪
 
 *幕府が細かく刑罰とその執行方法を決めていたが、こういう厳罰主義とその徹底も、連帯責任
 制度とともに善悪判断に至る教育的指導となり、心根に刻まれていったのであろう。                
 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

私の神様・仏様地球侵略! ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。