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土と炎に挑み続ける男

鉢伏窯・高野栄太郎の世界

 松本の東、鉢伏山の山懐にひとつの窯が築かれている。郷土出身の陶芸家、高野栄太郎氏の鉢伏窯である。
 氏は備前焼の流れを汲むも、ここに窯を築いて以来独自の作風を問い続け、その出来映えを以て早くから「鉢伏窯 高野栄太郎の世界」として内外での高い評価を得ている。

 こう書き出すといかにもパンフレットの紹介文になってしまうが(勿論嘘偽りの無いことだが)、私とは「栄太郎さん」の呼称で30年来のお付き合いである。

 かって市の中心部、お城の近くに「高杉」という品の良い小料理屋さんがあった。何気なく顔を出してみると、“美人のママも肴の美味さもさることながら”、この店で使っている徳利・杯から器にいたる焼物が、素人目にも存在感のある、またどこか心を揺さぶるものだった。
 それも加わった居心地の良さから、自然に足を運ぶようになったある日、この焼物についてママさんに尋ねた。
 「いい感じのものだけど、どこのもの?」
 “高野栄太郎さんが焼いてくれた物なの。牛伏寺の近くに窯をもって焼いているのよ。店にもみ
  えるわよ”

 その後暫くして挨拶を交わす機会を得た。
 先に作品に出会っていたばかりでないが、私より若い当のご本人様もウ~ンとうなるような存在感のある人だった。
 爾来30年近く、きまぐれに窯を訪ねて折々の作品を見せてもらったり、各所で開かれる個展に顔を出したりしながら、ぐいぐいと「栄太郎の世界」に引きこまれている。
  
 それまで、特別に陶芸に興味や知識があったわけではない。陶器の英語がチャイナだとか、中国の陶磁器・李朝の白磁・国内の焼物産地の一般的知識程度で、歴史上に登場する焼物の逸話だとか、新しくは魯山人の総合的美意識における焼物の位置づけくらいしか知らなかった。
 知識がその程度だから、「観る目」などあるはずがない。しかし、何かが私をしっかり捉えた。

 鉢伏窯は紛れも無い「上り窯」であり、赤松を焚いて焼き上げる。
 釉薬は全く使わずとも、炎の力で灰や土の鉄分が自然釉となって陶器の表面を覆う。無論、松の油分もそこに加わる。
 高貴なお方が纏う衣のごとく焼物を覆った自然釉は、漆黒から純白までの多彩なモノトーンや色見本台帳に見るような深みのある彩まで、ひとつとして造形も色相もない。それが練りあげられた土くれとひとつを成して、ただただ観る者を魅了してやまないのだ。
 「サンズイに火の字の下に土を書いて栄太郎さんの作品だね」と評したことがある。栄太郎さんは笑って答えなかったが、まさにこの地の清水をもって土を練り上げ、思うところの形に表した後は不眠不休で挑む炎との戦いから生まれる作品である。

 ひとつの窯の中でも、温度の高いところとやや低いところが出る。炎の当り方、舞い上がった灰や煙りの当り方も違う。火を止めた後も、置かれた場所によってその冷め方にも違いが出てくる。
 その微妙な一つひとつの違いが、「高野栄太郎の世界」となって作品に現れてくる。
 土作りから焼きあがりまで、その一部始終を目の当たりにしていると、栄太郎さんの作品は「単なる陶器や飾りもの」ではなく、己の人生に向き合う時「私に負けていませんか?」と問いかけて来る「聖師」にも思えてくる。
 実際、苦しかったある時期には手元の作品を何度も手にし、その「揺ぎ無い重みと温かみ」に失いかけていた自分を取り戻したものである。
 惜しむらくは、私が最もパイプの細いお客であるということだ。
 私に財力や社会的力があれば、もっと「役に立てるお客」でありえるのに、それは望むべくもないところが申し訳なくも残念である。
 
 物の鑑賞は個人個人に帰属するものではあるが、「話しかけたくなる作品、人の問い掛けに答えてくれる作品」は、技術云々を越えたところの「精神性」なくして存在しえないと思うようになった。「その目」をつけてくれたのが「栄太郎さんの世界」なのだ。
 その道のしかるべき人の評価や高名なお方の指差すものは、それはそれで定まるところがあるかもしれないが、自分が感じ取って良しとするものが「自分にとって最高のもの」であり、そうした見分力は何に向けても必要ではないかと思う。

 物づくりの世界には、商才に長けて名をなす人、師匠筋の名を借りて世に出ていく人もいるだろう。しかし、例え不器用と見られようとも己の道をひたすら歩み続け、その歩みを世に問う人もいる。私はこうした人達に会うにつけ、今に観る古の「名品を造った名も無き工人の心意気と技の尊さ」を思う。
 栄太郎さんは先の長い人だから「今」を決め付ける訳ではないが、そこには己の意と技に自分を同化させていった先人の面影を追わずにいられない。
 
 ニューヨークやパリでも個展を開いたことがある。
 何によらず、外人は自分の目で観たところ・聴いたところを率直に評価する。
 「外人は率直に良しとしてくれた」と帰国後上機嫌で話してくれた栄太郎さんは、本当に満ち足りた面持ちであった。
 そういう「風」が日本に在ればいいのだがな~とは、言外の言であったかもしれない。
 私も切に思う。
 もっともっと多くの人々に、一度でいいから観てもらいたい。 そして、一品でも良いから自分と通い合う作品を横に置いて愛でてもらいたい。そこから更に新しい世界が開かれるであろうことは、私が請合ってもいい。

 鉢伏窯は、牛伏寺に登る道の途中を右に折れ、松本カントリーに向かう右手にある。窯のレンガの煙突が目印になる。
 忙しい人だから、アポをとって行かれることをお勧めする。
 TEL 0263-58-1407

 丁度今、井上デパート新館で個展を開催している。身近で沢山の作品が観られるいい機会でもある。
 11月28日(火)まで。

 


 

 

 

 
 
 
 


飛騨新道

昔には偉い人がいた!

 気になることは、捨てずに頭の片隅に置いておけば、いつかそこに光が差し込むものだ。

 上高地から、焼岳の北の鞍部を越えて高山に行く道があったと目にしたが、何時ごろのことなのか、どういう謂われがあるのか、随分昔から気になっていた。上高地には徳本峠を越えたのだろうくらいに考えていた。
 7年ほど前、常念岳の頂上に立った時も、眼下の上高地一体を俯瞰しながらそれとなくルートを追ってみたが、全くの見当にも至らなかった。

 それがそれが、ひょんなことで、そのものズバリの本が見つかったのだ。
  【限定私家版 「飛騨新道と有敬舎 岩岡家三代の足跡」 平成10年発行】 である。
 市中に出回るものでないから、目につかなかった訳だ。

 安曇郡岩岡村(現在の松本市梓川.岩岡は字)の庄屋 岩岡勘左衛門英信が企画し、三代にわたって引き継がれ、天保6年(1835年)に完成した「飛騨新道・別名小倉新道」がその道である。
 ルートは驚くなかれ、北アルプスの前山の尾根筋を伝って上高地へ降り、中尾峠を経て飛騨中尾村に至る山道だ。
 常念岳の左手に南北にどっしりとした山がある。これが鍋冠山で、その奥に大滝山がある。岩岡から小倉を経て山に取り付き、そこから尾根筋を辿ってこの2つの山頂を越え、明神池に下りるルートだから、見当が付かないのは当たり前。
 山越えの道の大方は、行ける所まで谷筋を登り、いよいよとなればつづらに折れて峠を越えていく。それが、前山とはいえ北アルプスの2つの頂を越えるのだ。

 四囲を山に囲まれて暮らしていると、特に子供の頃は「あの山の向こうには何が」とか「あれを越えるにはどこから」とか思い描くものだ。そして、越えるには谷筋か鞍部に目をやりこれを追う。

 英信は飛騨を旅した時に、安曇と飛騨を結ぶ新しい山道が開鑿されれば、安曇の米を飛騨に運ぶことができ、また越中・加賀からの道程も糸魚川ルートに比べ大幅に短縮されるので、海産物も安価に且つ容易に入手できると着想したのである。
 もともと山に入る猟師達が歩いた道があり、高山の大火の復旧にこの道を通って安曇の大工が出かけたことも聞いていたらしい。道といっても人がやっと歩けるくらいの獣道に近いものだったろうが、険しい山越えではあっても飛騨への最短コースであることは知られていた。
 
 岩岡家が三代にわたり、私財を投じてこの偉業を成し遂げたこと
 幕末とはいえ、松本藩・天領の飛騨郡代(幕府)との交渉
 関係村民との意思疎通と協力
 土木工事~荷を付けた牛馬が往き帰るようにした
  そのどれをとっても、難行苦行であったに違いない。

 加賀藩は参勤交代の道としてこれを利用すべく調査までしたが、結局使われることなく明治になってしまったようだ。
 それには、島々の村民が沿線の木材盗伐の露見を恐れて不利な申し立てをしたとか、小藩である松本藩が大藩の通過に伴う補修等の煩わしさを避けようとしたとか、そういうことで時間が掛かりすぎ結局詳細な調査を終えるまでだったとの記述もある。(中島正文著 藩政時代の神河内より)

 この飛騨新道開通に伴い、上高地に湯屋を設け営業もした。~上高地開発の基礎
 また槍ヶ岳開山の祖播隆上人も、この道を辿って槍ヶ岳に登った。

 こうして完成した新道は大いに交易の道として活用されたが、天保の大飢饉・信濃の国の凶作により米が底払いしたこと、加えて疫病の流行等があって荷物を運べなくなり、更に万延元年の大暴風雨により道が損傷して不通となってしまった。その修復に岩岡家の三代目が奔走したが、この時の梓川筋の大荒れ修復でお上の支援も得られず、私財も底をつき万策つきて文久元年(1861年)「道筋切塞」の願書を提出し、この道の歴史に終止符を打った。
 開通26有余年という、短命な道であった。

 しかし、百戸にも満たない寒村の一庄屋がこれだけの偉業を成し遂げた基には、確固たる情熱と精神力があったことを同時に知った。
 「心学」というある一時期全国に広まった学問があり(その中身は詳しく知る由もないが)、この学舎を「有敬舎」と称して敷地内に設け、自身が先達となり大いに教育の道を開いたのである。
 一寒村の庄屋にして、その向学心と教育をも通して地域地域発展に貢献したいという情熱が、やがて「飛騨新道開鑿」を図ったのであろう。

 昔には、「私を越えて人の為に尽くす」という、まことに偉い人がいたものだ。
 道は、いろいろなことを教えてくれる。
 道は、辿るほどに今をありのままに見せてくれる。
 

  
 


  


まさに晩秋

寒々しい冬近く

 すっかり太陽の位置が低くなり、部屋に差し込む日差しが長くなった。部屋で日光浴も出来るし、広げたり掛けたりで毛布や布団も干せる。
 あちこちの軒先やマンションのベランダには、長さは様々だが柿すだれが目につく。

 ばあちゃんが縁側で柿をむく
    はじめ面白がって手伝っていた孫たちも、いつの間にかどこかへ行っちゃった。
 ばあちゃんはするすると柿をむく
    嫁いだ娘や所帯をもった息子に、縁起ものだから正月には欠かすなと送ってやる。
 ばあちゃんは考え考え柿をむく
    「ばあちゃんの干し柿は柔らかくて本当に美味しい。ばあちゃんありがとう。お正月には行く
    からね。」 綺麗な紙に包まれた菓子折りよりも、付いてくる孫の手紙が何よりうれしい。あ
    の子も大きくなったから、今年は増やしておこう。
 ばあちゃんは夜の夜まで柿をむく
    “ばあさまも 達者でおわすと 軒の柿”
    霜が降りて、朝霧が立って、柿すだれは育っていく。この家の柿すだれは、ばあちゃん元気
    の印だよ。
    “月明く ばばと寝ている 柿すだれ”
 家々の庭にある柿は、数少ない昔の味を伝える食べ物だ。ほかの物は、ほとんど品種改良の手が入っているから。それにしても、収穫されるでもなく冬を待っている柿が多くなり、もったいない限りだ。

 今朝の新聞に、年末魚介が高値推移の見込みであること、オーストラリアが未曾有の旱魃で、日本向け小麦粉の手当てが心配される。が、豪州政府が他国輸入分を含めて責任を持つとの記事があった。
 魚介の高値は、資源枯渇もさることながら、中国他の買い付けによるとのこと。去年の春以来のことで、そのこと自体は知れわったっていたことではある。
 豪州の旱魃は、地球温暖化の影響ではないかとされているが、そればかりではないらしい。

 1億25百万の日本人が世界中から食料を買いあさっていて問題が起きているのに、13億人を抱える国が諸々買い始めたら、物の流ればかりでなくい、生活に関わる何もかもが変わる。
 豪州は、米国と同じく京都議定書にはサインしていない。分りきっている将来事項についても、自国の都合を押し通している。地球の環境変化は目に見えて、逐一詳細に報道されているのに。

 宇宙船地球号の人類の定員は、30億人とも35億人とも言われていたが、その倍の人間になっている。どうなるのか、どうするのか、どうしたらいいのか、どうすべきなのか・・・。

 平成17年度の概算食料自給率は以下のとおりだ。
  主食用米 100%
  小麦     14%
  芋類     81%
  豆類      7% (内大豆 8%)
  野菜     79%
  果実     41% (内みかん103%・リンゴ52%)
  肉類     54% (内牛肉43%・豚肉67%・鶏肉67%)
  鶏卵     94%
  牛乳・乳製品68%
  食用魚    57%
  海草類    67%
  砂糖類    34%
  油脂類    13%
  飼料用を含む穀物全体の自給率   28% 
  主食用穀物自給率           61%
  供給熱量ベースの総合食料自給率 40%
  飼料自給率               25% 

 * 類まれな豊かな自然に恵まれた日本。
   「農は国の基なり」にもかかわらず、その国土の荒廃は即ち人心の荒みに繋がっている。海
  の汚れもまたしかり。

 *自家生産・地場産・県内産・国産でどのくらい食べていけるのか考えたことがある。
  乾麺は勿論、うどん・ラーメン・スパゲッティー等の麺類は先ず全滅。蕎麦とうどんは、原料産
 地を確かめてから手打ちで食べるしかない。
  肉・魚は、産地を見て購入。加工製品はまずほとんどが駄目。
  アルコールは、日本酒と焼酎くらい。
  味噌・醤油は、地元の醸造元で確かめてから。豆腐・油揚げも同様。
  外食は出来ない。
  何のことは無い。昭和20年代の食生活に戻れば良いだけの話しだ。貧しかったが、こころは
 暖かだったし自然は豊かだった。
  あれからだ! 「豊かな生活」を求めて突っ走り、自然豊かな日本を置き去りにし、大和こころ
 を忘れ去ったのは。

  【そんな他人事のようなことを言っている場合じゃないんですよ!・・・そのとおり。
  先の見えたジジババには在る物で済ませてもらうにしても、先々の長い我子や孫たちが健や
  かに明るく暮らせるようにしていかないと。】

 


いじめ その5

いじめは無くならない?!

 人間は感情の動物であり、欲望を生命力の源にしている。そこからは嫉妬心や闘争心も生まれる。だから、生きている限り、いじめ心を抑えること・
いじめを減らすことは出来ても、無くすことはできない。
 また、誰しも初めての人生である。見るもの・聞くもの・感じるもの・身の内から湧き上がってくるもの、その全てが初体験である。二度目の人生なら許されない失敗もあるが、初めての人生なら、例え道を外したとて、その全てを責める訳にはいくまい。

 となれば、いじめのあることを前提に、「いじめをしない人間づくり」と「いじめを減らしていくこと」、そして「いじめ対処方策」の三つを並行して教え・取り組んでいかなければならだろう。
 い
じめは、何も子供の世界だけのことではない。大人の世界に入れば、もっと強烈で陰湿ないじめが至る所で横行している。やがて子供もその世界に入っていくわけだから、鉄の熱い内・柔軟な子供の内に、「いじめの何たるか」を理解させ、自分のものにさせておくことだ。

【いのち】
 前4日間で「いじめ発生の環境」を捉えてみたが、つまるところは「命の大切さの躾と教育」の欠如ではないだろうか。

 今地球上にある生命の全ては、「地球46億年の歴史の中での奇跡の積み重ね」と「生命誕生以来の生存に向けての格闘の歴史」を受け継いだものである。人も草木も花も虫も、生きとし生けるもの全てが同等に、生きる権利と生き抜く義務をもっている。ここのところを、年齢に併せてしっかり教えておけば、いたずらに虫を殺すことも、草木や花を手折ることも、ましてや人を傷つけ己の命を自ら絶つこともなくなるだろう。

 一代が30年として、今の自分に至るまでの父母の数を計算してみた。日本の総人口に近い1億2千5百万人までとやってみたら、25代・750年遡ると、1億3421万7728人の父母になった。時代は平安後期の天喜四年、前九年の役の頃である。
 たった25代遡ってもこれだけの父母が居てくれた訳だ。そして、その後の日本史を紐解くまでも無く、「生命倫理」など意識していようがいまいが、幾多の苦難と恐怖の中で只ひたすらに我子の命を守ってくれた父母がいたのだ。弥生・縄文・石器と時代を遡れば、尚更のことである。その連鎖の賜物が、今の自分である。
  長い日本人の歴史を見ても、ほぼ満足に衣食が足りるようになったのは、僅か50年前からではないか。

 世の中は常に流動的である。正義も自由も変化し続けている。
 「今が最も進んだ世の中だ」等と思うことは、物事の実際を見誤る元だ。進み続けたのは科学だけで、その他のことは一進一退。僅かずつでも前進したことと、一方で大きく後退していることが混在している。
 感情と欲に基づく人間社会とその歴史は、是非の繰り返しである。
 そうした中にも、守らなければいけないもの・壊してはいけないものが、不変の事柄として有るはずだ。その最たるものが「受け継がれた命を自然と向き合いながら大切にしていくこと」だと思う。
 親が子を殺す・子が親を殺す、生徒が自殺をする・教師が自殺をする。「殺」はとんでもないことだが、その前には「虐待」があり「いじめ」がある。「殺・虐・イジメ」、これは一線上にあり、根はひとつなのである。

【教育現場を含めて】
 学生の基礎学力低下が取りざたされるようになって久しいが、一向に改善されない。一例だが、新入の英検1級の子に文章を書かせたら、全くものになっていなかった。話しをさせても会話にならない。本人はケロッとしている。「お前は、どこの国の人間だ!」とどなりつけたくなった。
 大人びた言葉で会話をする小学生がいた。いわく、「発展的に考慮した方がいい」だと。こんな言葉は、論点をぼかす時に私が使った言葉だ。しかし、無理も無い。日頃最も多く耳にする会話は、跳んでる言葉遣いの大人が出ずっぱりのTVなんだから。

 「本を読まないから文章が書けない。文章が書けないから会話が出来ない。会話が出来ないから人間関係が作れない。人間関係が作れないから暴走する。先ずは本に親しませることだ」とは
 言い当てて妙だし、真実を突いている。 
 官僚が机上で教育改革を練る。そして、役人化した教育委員会を通じて現場に押し付ける。
 何も、そんなに難しいことでなくていい。義務教育の中で、「読み・書き・そろばん」を教え、「情操に目の向く人間」を育ててくれれば良い。そこから自然に生まれてくるのが、家族愛であり隣人愛であり愛国心だ。愛国心の教育を先頭に立ててどうなるんだ!

 役人は公僕である。教師は聖職者である。
 公僕の認識のない役人はお辞めください。聖職者の自覚が無かったらお辞めください。
 海岳の慈愛の象徴が父母である。
 子供を愛しいと思えないようなら、父母にならないでください。

【今から】
 今からこの「何でもありの日本」を変えようとしても、その成果が現れるのは100年後かもしれない。世の中がその気になって子供は変えられても親(大人)を変えることは難しいから、この先二代や三代はかかるだろう。壊すは一瞬でも、創るのには何倍もの時間がかかるのだから。
 しかし、善事を進めるのに遅いということはない。

 2:6:2の法則というのがある。
 その組織の中で、先頭にたってその組織を引っ張っている人間の割合が2割。そこにぶら下がってまあまあの仕事をしているのが6割。組織の枠から外れているのが2割りだそうだ。そこで、不要の2割を削ると、残った8割の中でやっぱり2:6:2が生まれるとのこと。
 そうすれば、1億2千5百万人を変えると思えば気が遠くなるが、先に立つ・目立つ存在の2割が本気で動けば日本を変えられるではないか。
 悪貨が良貨を駆逐するとはいえ、子供の落ちこぼれには最大限気遣うとしても、大人の落ちこぼれはしょうがない。いつの世にも悪太郎はいるし、反面教師も必要?だから。

 松本市の「いじめの再調査結果」が何時纏まるか知らないが、学都に相応しい取り組みに結び付けて欲しいと願う。
 幸い現市長は、失礼ながら「創造バランスに秀でたお方」とお見受けしている。
 是非、入れる場所にはしっかりメスを入れて患部を治療し、術後のフォローにも目を配って欲しい。
 

*例えば、「飲む打つ買う」の限りを尽くした人間が、いよいよ身体が動かなくなったら手の裏を返
 すように善行を説くようなもので、いささか面映いところのある5日間であった。が、ここのところ
 のイジメや虐待に関連する連続報道にうんざりしつつ、ついカッカカッカしながらこれを吐き出し
 ていた。
 あるブログを拝見したのをきっかけにして書いてみたが、とても言い尽くせなかった。
 また一呼吸おいてから編集してみたい。


 


 


いじめ その4

けじめが付かなくなっている元は?

 うろ覚えで申し訳ないが、かなり前の新聞の広告欄?にこんな記事があった。
 沈没することがはっきりしている船で船長が、「
助かるには海に飛び込むしかない」と叫んでも、皆なかなか飛び込もうとしない。そこで、国別に耳打ちしていったら全員が飛びこんだ。
 英国人~こうすることは、海に出た者の伝統になっています。
 米国人~勇気ある人と称えられるでしょう。
 仏国人~絶対に飛び込まないでください。
 独国人~飛び込む規則になっています。
 伊国人~下へ行けばモテます。
 中国人~今飛び込んだ人は、大きな儲け話しを持ってます。
 露国人~こっちにもっと良い飛び込み場所があります。
 日本人~みんな飛び込んでいます。

 「何でもありの風潮が蔓延してしまった元」は、日本国としてまた日本人として、今次大戦のけじめを付けなかったこと(未だに薄いベールを掛けたままでいるが)にあり、そこが出発点だと考えている。
 今次大戦は、日本国にとっては明治維新とは比較にならない程の「革命」であった。革命に血はつきものとはいうものの、その革命がもたらした自由と平和と平等を手にするにあたって、どれだけの「悲惨」を国の内外にばら撒き、血を流し・流させてきたことか。
 この「
大革命」の総括とけじめをつけず、馬車馬の如く経済復興の道を突っ走った結果の中に「いじめ」もあるのだ。

 GHQの統制下では三権とも動きがとれなかったから戦後直ぐにとはいかなかった。しかし、昭和26年の講和条約締結によって独立国家となった時点からけじめをつける取り組みを始め、早い時期に国の内外にその「日本国としての戦争総括とけじめ」を示すべきであった。
 その点、同じ敗戦国でもドイツは違う。今に至るまで、国際社会における信頼・評価・存在感に大きな差が付いているのはそこにある。
 
 どういうけじめをつけるのか。
 首相は「歴史の評価は歴史家に任せ、政治は口を挟むべきでない」と訳の分らないことを言っているが、国内はもとより国外に対して「国の姿勢を示す」のは政治の範疇であり、歴史家の務めではない。政治が表に立ってしっかりとした検証過程を踏みつつ、けじめの中身を形作るべきだ。

 今次大戦の総括と言っても、どこからを今次大戦と言うのかさえ難しい。満州事変以降を言うのか、支那事変以降を言うのか、南方進出からをいうのか。ある時点だけを抽出して見ていると、誤りが生じる。歴史は繋がっているのだから。
 私は、幕末の不平等条約による開国から昭和26年の講和条約締結までをつぶさに見ていかないと、明確な今次大戦の総括はできないのではないかと思っている。
 開国以降の相手国との交渉・中国・朝鮮国との関係・欧米のアジア進出状況・ロシアの南下政策、そうした中に日本の国情があって歴史は動いてきたのだ。
* この間の歴史は、今に生きる日本人にとって最も重要な・必要な日本史の中身である。きちんと教えておかないと、いつまでも国際社会における流浪の民になってしまう。

 私の子供の頃は実際に戦地から帰還した人が大勢いて、手柄話しとも戦記とも分らぬ話しを聞かせてくれた。南京でのことも慰安婦のことも、もっともっと信じられないことも聞いた。
 クラスには、お父さんのいない子が何人も居た。お父さんが戦争で亡くなったことは暗黙の承知事項であり、特にそうしたことで差別も特別扱いもなかった。私も同様だが、身内に戦死者のいない家庭はなかったのではないか。
 神道祭り・五社のお祭り・天神祭り・あめ市・恵比寿講、そうした人の集まるところには、白い病人服を着、戦闘帽を被り、松葉杖をつき、アコーデアオンやバイオリンを弾いて善意の報謝を乞う傷痍軍人の姿があった。

 間違いなく、人が傷つき・人を傷つけた戦があったのだ。
 その今次大戦の総括をし・けじめをつけない限り、憲法改正論議も真に理解されないし、広島・長崎に対する罪を米国に突きつけることもできない。
 併せて、東京国際裁判の何たるかやGHQの占領政策の中で是とすること非とすることまで、こと細かにつまびらかにしておかないと、戦後の日本の歩んだ道・歩まざるを得なかった道が理解できない。

 今更!という声もあるだろうし、今のいじめの解決には遠すぎるという声もあるだろう。
 しかし、対症療法だけで事を済ませようとしていたら、真の問題解決にはならない。
 科学肥料を撒き消毒を重ねても、土壌をしっかり作らない限り良い作物は出来ない。今の日本は、その肝心の土壌がふやけているのだ。しかし、がれ場や砂地ではないから、望みは持てる。
 村井知事が、長野オリンピックの金の動きに対する調査を中止させた。「今更犯人探しでもない」との釈明だった。さっそく市民タイムスの「みすず野」が、「ほっと胸を撫で下ろしている向きもあるだろう」と我が意を代弁してくれた。この一件で、かなり村井県政のこれからに?!が付いた。県議が大方残っている中では、また同様に片付けられることががあるかも知れないと疑義を感じるようになる。今更で始まれば、大戦のけじめと同じことである。

  冒頭の新聞記事の揶揄ではないが、右向け右!で1億2千万人が一斉に右を向くようでも怖い。しかし、1億2千万人が「何でもあり」の風潮の中で生きてきたのも事実である。
 やはり、ここらで足元を見つめ直し、恥を知る日本人に立ち返るべきではないか。
*今朝も、校長が亡くなり、生徒が亡くなったニュースが流れている。

*経験者とは、過去に何をしたか、どれだけのことをしたかではなく
                            経験を踏まえて今を生きている人
                            経験を将来にどう生かそうかと考え
ている人
                            そういう、今を実践し将来を目指している
人を指す。~のだそうだ。
  喫緊に求められていることは、多くの経験者の知恵と行動である。
 
   



 

 
 


いじめ その3

何でもあり?・・・

 「世情とかけて、沖縄の古民家と解く。その心は・・ 仕切りもなければ階段もない。」

【仕切り】
 プロとアマ、玄人と素人、公務員と一般職業人、聖職と一般職、横綱と平幕、政治と宗教、政治家とブローカー、坊主と集金人、銀行と街金、保険屋と詐欺師、公金と私金、やって良い事と悪い事、表にすべき良い事と隠すべき事、褒めるべき事と叱るべき事・・・。
 その見方・分け方はいろいろだが、世の中には、明確に規制されていること、表裏でけじめをつけるべきこと、類似の業務と一線を画し「李下の冠」を戒めることが等が沢山ある。
 そこには、きちんとした或いは暗黙の高い仕切り壁があって、誰にでも判別・判断がつくようになっていたし、また安心と信頼と尊敬をもたらしていた。当然「誇り」の伴うものでもあった。

 この仕切り壁が無くなったり極めて低くしてしまったため、驚きと嘆きが続く。
 困ったことに、驚き・嘆く年代に層が出来ているし、また驚き・嘆きの対象によりその程度が違ってしまっている・差が付いてしまっている。
 だから、こうした現象をひっくるめた上での対処は、「ま、いいか」・「仕方ないよね」・「とりあえず」・「今更だもんね」で始まり、結局「何でもあり」で流し・流されてしまう。
 世情には、こうした暗く深いもたれあいが蔓延してしまった。

 そうした中にあってのひとつ、
 松本の夏は暑く、冬は寒く厳しい。なのに、学生のスカートの短いこと!過ってミニスカートが流行り始めた頃は、膝上何センチが話題になった。今は臍下何センチを争っている。寒いだろうなと見ているうちに、トレーナーのズボンをスカートの下に履く娘が現れ、最近ではそれが定番になりつつある。何のための制服か!と言いたくなる。電車の中で化粧はするし、床にスカートを広げて座り大声でしゃべりまくる。男子生徒のズボンやシャツの着崩した格好もいただけない。だらしなさ以外の何ものでもない。
「心あれば形となって現れ、形整えればやがて心備わる。」であり、そのための制服ではないか。
 こんな支度を制服とし、その着崩しをも黙認している(公立・私立の)学校で、一体何を教育しているというのか。無論、元々の親の躾・教育もだ。
 小学生も中学生も、それをやがての自分の姿として見ている。「何でもあり・どうでもいい」を感じ取っている。日頃の学校生活と先々の学生生活を重ねれば、当然自分達で自分達の行動を判断するだろう。先生の生活指導の目がないから、“とりあえず”登校していれば(一定の単位がとれれば)、後は何でもありだ。
 きちんとした仕切り壁を前にして、あるべき姿を正していかないから・叱るべきを叱らないから、派生する行動の一端に「いじめ」が生ずるのだと思うが、いかがかな。

【階段】
 こつこつと経験を積む、これは人生の階段だ。長幼の序、これも階段の一つだ。
 時間の経過の中で培われたものに対し敬意を払い評価する風潮が薄れ、結果だけを捉えて云々するようになった。
 「何でもあり」と「規制緩和」を素早く我が物にし、短時日の内に富を築いた者が「勝ち組」としてマスコミに登場する。「努力する者が報われる世の中を」は正しい。しかし、努力を重ねていても報われることの少ない人も沢山いる。また、そうした人の多くが社会を支えてもいる。
 預金者に払うべき金利を払わず、悪さの限りをし尽くした果てに12兆円もの公的資金を借りて尻拭いをしてもらいながら、税金も払わずまたゾロ悪さを始め非難されている会社がある一方で、苦難な経営にあえぐ中小企業はごまんとある。2兆円の営業利益をあげた裏では、正職員比率を引き下げている。あれこれが表に出て、国を代表する幾多の企業がその倫理観を問われている。
 色々な立場の人が居て社会が成り立っていることと、職業に貴賎のないこと、こつこつと積み重ねる努力がプライドを生むこと。こうしたことを実際の姿で見せ、躾や教育の中に織り込まないと、落ち着いた考えを持ち・彼我の関係を承知して行動する人間になっていかないのではないか。
 義務教育を終了するまでに、幼児は幼児なりの内容で、小学生は小学生の内容で、中学も同様、是非身に付けさせたい。

【仕切り壁と階段を示し、積年の風潮を変える】
 これは、先に立つ者・よく目に触れる者が、実践・実像で示していくこと以外に、この風潮を変える道は無い。
 首相が政治家が、校長が教師が、父親が母親が、とにかく先に立つ者・よく目に触れる者が実践・実像で示すことだ。
 企業・組織・団体も同様である。立派な社是を掲げ理念を掲げているならば、それに合致した仕事をすべきだ。間違っても、道に外れたことで「申し訳ありませんでした」等とマスコミの前で頭を下げぬことだ。

 子供は家庭と学校と社会が大きくしていくのだから、子供に問題が生じたとすれば、三者が自己の責任を考え、謙虚に対策を講じなければいけない。社会に責任があるというと、何か問題をはぐらかすようにとれるがそうではない。一つひとつ関係する問題点を突いていけば、いくつかの解決の糸口は見つかる。入り口の所で投げ出すから、いつまでたっても解決されない。
 いじめた側の子を矢面に立たせるだけでは何の解決にもならないことを、よくよく承知すべきだ。

 子供は親の知らないところで大きくなっていく。教えないことを覚えて大人になっていく。
 そのウエイトの方が遥かに高いことは、自分の過去を振り返れば誰しもうなづく。
 概してその時期が来るまでの義務教育期間に、仕切りの壁の判断ができるように躾・教育しておかないと、世情に流されるがままの、「誇り」を尊ばない大人になっていってしまう。
 
 


いじめ その2

横並びから個性の尊重へ

 今の世の中、子供から大人まで疲れているという。確かにそうだ! 気を抜いてアハハと笑っていられる時間は少ない。
 ストレスが蓄積され、衣食住が満たされてもフラストレーションを感じている。

 目の前に困り事があれば、苦労を重ねてでも何とか乗り越えていく。本当の気疲れ・気苦労は、将来に対する漠然とした不安である。老後の生活に対する不安、地球環境に対する不安、後進国の発展に伴う物流の変化etc。これ等は、徐々に蓄積される精神的鬱積の大きな種である。 
 それはさておいて、もっと身近な所にも種はある。それは、過剰な情報量に対応しきれないことからくるストレスの蓄積だ。日々の中ではこれが一番大きいのではないか。

 これがあれば便利です、これを知ってますか?、これが使えますか?、行った事がありますか?等々と、集中豪雨のごとく情報が流される。すると知らず知らずの内に、持っていないと・知らないと・使えないと・行った事がないと自分だけが取り残された気分になる。
 大人がそうだから、子供なんていたってそういう気になるだろう。輪の中に居続けるのには、情報に敏感になり、その何たるかを承知していなくてはならない。でないと、仲間外れになったりいじめの対象になったりする。

 今在る物を無くすわけにはいかない。歴史を遡り、時間を戻すわけにもいかない。
 一億総白痴化の元のTVだって、思考回路断絶の元のTVゲームだって、言語障害を来たす携帯電話だって、今更無くすわけにはいかない。
 物も考え方も、貧しい中にも先々に大きな希望が持てた、昭和20年代に戻る訳にもいかない。

 要は、自分(我が家)の価値観に基づいて、どうその機能を取り込み・使いこなすかだ。そこを、家庭も義務教育下の学校も、きっちりと躾・教えていかないといけない。
 それには先ず、ベースとなる生活様式・学習様式をはっきり示し、そこに楽しさや張り合いを見出させる仕組みを組み込んでやることだ。
 
 もうひとつ、自分の価値観に基づいて情報の選択をすることだ。無視する情報・無関係な情報・不必要な情報と決めて切り捨てれば、もっともっと楽に暮らせる。
 自分にとって何が大切か、何が必要か、何が癒しに繋がるかで選択すれば、相当量が切り捨てられるだろう。
 その価値観醸成を家庭も学校も大切に考えると同時に、個々の価値観を認める環境を作っていかなくてはならない。この環境作りにより、ある種のいじめは大幅に減少するのではないか。

 10人の顔立ちが違うように、10通りの個性があっても当然である。スタートは同時でも、ゴールでは順位がつく。これは当たり前のことだ。
 「何もかも横並び一線でないと安心できない」という見えない風に乗る
限り、いじめはなくならない。
 横並び一線であって欲しいことは、歳相応に生活常識を身に着けていることであり、それ以上のことは、個々の個性を見ながら得意とすることを伸ばしてやればいい。この二つを一緒くたにし、家庭にあるいは学校に、子供の躾と教育を一方的に押し付けても無理だ。

 次に、「フラストレーションやストレスが溜まる」ということと、「切れる・切れやすい」ということは、親戚関係かも知れないが別だ。
 フラストレーションやストレスが溜まっても、その原因を解決するか、心を別の処に置き換えられれば発散できる。特に、「心を別の処に置き換る術を身に付けること」が、生涯にわたって大切だと実感している。
 一口でいえば自分を癒す世界、傾いた自分を元に戻す世界を持つことだ。例えば趣味。
 これは、その子の個性を見極めながら、その子が楽しいと感じていることへ形をもって誘導してやるといい。押し付け一方のお稽古事ではどうもとも思うのだが、機会を与えないよりはいいか。
 
 「切れる・切れやすい」は、怖いもの無しか、我慢不足か、情緒不安定が原因とよく言われ、確かにそれは当っていようが、それは程度に差は有っても昔から見られたことだ。
 【以上の原因と目される事項の発生過程とその対策は割愛】
 私はそこに、「感動しないこころ・感動を知らないこころ」を付け加える。
 「感動しない子」は、いじめられる側にも、いじめる側にも回りやすいのではないかと思うからだ。
 無機質なこころが、ある時かってない強い刺激を受けて抉じ開けられる。本人にとっては驚愕極まりなく、自分を繕うその対処の仕方が分らないから、瞬間的に切れる。そう見ると、昨今の記事を見て「何で、こんなことで!」とか「何で、こんな子が」という疑問が解けるような気がする。
 
 何故、感動しない無機質な心になるのか。
  居ながらにして、また待たずして何でも満たされてきたから。
  親の肌の温もりを感じて来なかったから。
  家にも学校にも、自分を注目していてくれると感じられる人が居なかったから。
  「感動する機会が与えられて来なかった」から。
  叱ってくれる人がいなかったから。
 ケースごと原因はまだまだあるだろう。(大人の切れやすいは、ただ未成年なだけだ)

 こういう子には、例えばグループ登山をさせるがいい。助け合うということ、周りに気遣うということ、汗して自分の足を使わないと辿り着けないこと等の中から改めて自分を見出すだろう。
 山頂に立てば感動もし、さしもの無機質な心にも血が通うだろう。簡単な握り飯の美味さ、ただの水の美味さに、食に対する考え方も変わるだろう。感謝のこころが備わるだけでもいいじゃないか。
 要は、身体を動かさせて、こころに血を通わさせることが出来ればいいのだ。

 *待って待ってやっと買ってもらった物もあったし、我慢させられたこともあった。後になれば、我慢させられた物は、それが正しかったと思い知らされることが多かった。
 

 


いじめに思う

いじめの原因は

 いじめが原因で自殺する子が出たり・自殺予告をする子が出たり、一方では勉強を教えない学校があったり・教えなくても良いことを個人的に教えたり。文部科学省は、そんなあれやこれやに自分の失態も加わり大忙しだ。だから教育基本法改正を急ぐのだという。それって本当なの?

 松本市が市内の小中学校を対象に「いじめ」の実態把握をしたら、16校から47件の実態報告があり、32校からはその実態なしの報告が来た。が、実態なしに疑問を感じた市では再調査をする、と今朝の新聞にあった。

 過っては性善説をとっていた私だが、今はすっかり性悪説をとっている。
 赤子は本能・欲望むき出しである。周りの状況や都合などお構いなしで振舞う。
 長ずるに及んで、回りの顔色も覗うようになるし、状況に合わせた処し方をするようになり、やがて家族に加わり社会に加わっていく。その間では、先ず「親が躾・教育」をし、「家族が躾・教育」をし、「保育園・幼稚園が躾・教育をし」、「義務教育で躾・教育」がなされていくわけである。
 この過程がきちんと在れば、高校生以降は一人前の人格を認めてやらないと「成人」に向かってはいかない。

 何時の世にも、己の本能・欲望に忠実な人間はいるものだ。
 罪を犯し罰を受ける者もいるし、罰をすり抜け平然としている者もいる。罪を問われるところまではいかないことなら、大概の人間が犯している。
 聖人に成るはともかくも、成人(人に成る)になりきれない人間は、赤子のままでいると思えば分りやすい。
 どこかで躾や教育や勉強や訓練が欠けていた中で大きくなった、未成人なのだ。

 では、「躾・教育」ってなんだろうと考えてみる。
 「三歳児の魂百まで」と言われるが、就学までにどれだけのことが身につけられたが大事だ。
 1.箸を正しく持ち、箸で食事ができるようにする。
 2.「恥ずかしい」ということを教える。
 3.「譲り合う」ということを教える。
 4.「神様」の存在を教える。~天網恢恢疎にして漏らさず
 5.手作りの食事を与える。~タマネギやじゃがいもの皮を剥かせ、料理を手伝わせる
 6.本の面白さ・楽しさを教える。
 7.外で友達と遊ばせる。
   この過程で親は、叱っても怒らないこと。一緒に風呂に入り、抱き・背負い・肩車し・手を繋
  ぎ、体温を感じあうこと。
 この程度で十分ではないだろうか。

 もう三十数年前になるが、前の市民会館で「臼井吉見
」さんの講演を聴く機会があった。
 鮮明に覚えていることは、小柄な臼井さんが壇上ではすごく大きく見えたこと。そして、「母親と妻と娘を見ていると、学歴は娘・妻・母の順だが、知恵の有無は母・妻・娘の順だ」と笑って話されたことだ。
 学校は知識を得るところで知恵を得るところではない。知恵は実生活の中で身に付けていくものなのだと、自分なりに解釈した。

 学校における集団生活の中で「躾」に関することも教育するだろうが、そもそも「基本的な躾」は家庭で済ませておくものだ。
 第一、「聖職」の意識のない教員や自らさほどの躾を身に付けていない教員が居れば、無垢の子供に「躾教育」が出来るわけが無い。そうした教員が子供の担任になることだってあるのだから、「躾教育」まで学校に持ち込んではならないのだ。
 正直なところの、学都松本の教育現場の実態やいかにである。

 子供を躾られない親はどうするか。
 それは別問題で、「子供を作ることと子供を育てることはひとつなんだ」ということから、話しを始めなければならない。 

 「いじめ」の原因となるものは、広く・深いと思う。

*私の時代でも「軽いいじめ?」はあった。思い当たることも2~3あり、私はどちらかというといじめる側だった。世の中、水平方向でも垂直方向でも差がでることが多い。物の有る無し、テスト結果等々。そうした時には、その位置関係からのやりとりが、からかいに始まり、軽いいじめに繋がることもある。軽いいじめと言っても、そうされた方の受け取りかたは違うかもしれないだろうが。
ただ、昨今の様子と大きく違うのは、決して仲間外れにはしなかった・仲間外れは生じなかったということだ。そして、行き過ぎた場面があればクラスの誰かが諌め、それで何事もなかったように・後を引くこともなく収まっていた。
 先生の出番など全く無かった。先生は、あくまで偉い人・怖い存在であった。
 


 
  


魚は美味いか

海から遠いからだけではない!

 11月に入ると、富山湾の魚達が「早くお出でなさい!」と呼んでくれる。北から南まで、あちこちの海辺で魚を戴いて来たが、寒い所の寒い時期の魚がやはり美味い。とりわけ、11月から4月にかけての富山湾の魚が一番だと信じ切っている。

 広島から松本にきて3年目という人に、松本の食べ物の印象を訊いた。美味しいのは野菜で、「ここへ来て初めて食べた野菜サラダの美味しさには驚かされた」とのこと。美味しくないのは「さかな!」と切り捨てられたが、そのとおりだから仕方が無い。

 塩もの・干しもの・漬け魚は、松本に限らず、どこで食べてもそう変わるものではないはず。(実際は、上級品が地方にくることは少ない。上級品とは、原料・製法にこだわった特製品) また、サンマのような季節の旅ものは、水揚げ港以外、広島でも松本でも変わらないだろう。
 違いの出るのは鮮魚だが、これは野菜や果物だって同じこと。産地と遠隔の消費地では鮮度も違い、それに伴う味も違うのだから。
 そこで、どこまでを許容範囲と出来るのかが問題になる。

 冷凍・冷蔵技術が発達し輸送方法も変わった現在、何が広島県人をして「美味しくないのはさかな!」と言わせるのか。確かにこの地の鮮魚に、獲れたてのプリプリ感、シコシコ感・コリコリ感は無い。そして、どうしても魚特有の臭いが付いて回る。これらのことは観念的にも直ぐ思い浮かぶことである。が、別に大きな原因があることを指摘する。

 昭和40年代後半から、市街地はもとより周辺の町村部まで、いわゆるスーパーマーケット(SM)が出来、徐々に地域の魚屋さんにとって代わった。この頃は各店に魚介部門担当者がいて、自分で仕入れをし接客もしていた。自ずから魚に関する情報
もお客の要望も、市場・店・お客の間で共有出来、それが売り場に生かされていた。

 SMは経営効率追求で、集中商品化基地(セントラルパッケージ基地)を造り、可能な限りの各店作業をここに集約した。この時点から魚専門の担当者は激減し、各店では送られてきた商品を並べるだけになり、お客は誰と話すことも出来ず、SM本部の思惑に沿った買い物しか出来なくなった。それは自ずと、売れるもの・売りやすいもの・ロスの出にくいものが主流になっていった。


 やがて郊外型の大型店・ショッピングセンター(SC)が出来ると、市街地や町村部の小型SMは姿を消した。魚屋さんが無くなり、地域の隅々まで店を広げた小型SMが姿を消すに連れ、地元市場の扱い量も減少した。加えて、SCは本部一括仕入れによる物流を行うため、これに拍車をかけた。地元の市場としても無難な商品の扱いが中心になり、専門飲食店・料亭に行く以外、いわゆる「美味そうな魚・珍しい魚」などが身近な店頭に並ぶことは無くなった。

 穂高の生鮮市場内に、小規模ではあるが鮮魚を扱う店がある。また、諏訪市や長野市には寺泊の「角上~カクジョウ」が店を出している。丸物や姿物で商売が成り立っているとも思えないが、お客は「鮮度の良さと品揃えの珍しさ」と「店員とのやり取り」に満足と納得をし、併せて他の商品も買っている。

 残念ながら、松本にはこういう店は無い。この時代になっても、相変わらず大型SMやSC任せの買い物をせざるを得ない。ここに、松本の魚が美味しくないという大きな原因がある。
 
加えて、大型SMやSCの経営の中には、お客に対して怠慢と言わざるをえないこともある。

 渚にTURUYAが出店した。この時点で、松本界隈の大型SMやSCは大きく変わるだろうと期待していた。それは、TURUYAは「お客様の求める新鮮・安全・美味」を品揃えの大原則にし、そこに向けて諸開発を積極的に行ってきた。東信での出発当初、「品物は良いけれど、ちょっと高い」が評判になったが、結局お客の固い支持を得て、北信への進出を経て中信へもやってきた。品物の良さ・品揃えの良さばかりではない。レジの二人体制をはじめ、接客サービスもお客サイドに立っている。TURUYAとてパーフェクトではないにしろ、総合的にお客の満足度は高い。

 その実績内容からして手強い競合先として捉える店(チエーン)は、TURUYA
を意識して様変わりさせるだろうと思っていたが、店名を変え内装を変えた店はあるが、内容は全く従前のままだ。魚売り場の前を通ると、調理室から生臭い魚の臭いが流れ出してくる。掃除に手抜きがあり、ごみ処理もきちんと出来ていない、側溝も良く洗っていないためだろう。これじゃ~駄目なわけだ。後先を考えれば、とても魚を買う気にはなれない。

 魚の全てを知り、魚が好きで、その魚を美味しく食べてもらうには、自分は何をどれだけやればいいのか。それを常に考えて行動している担当の居ない店では、美味しい魚が買える訳が無い。
 三枚におろせれば良い、柵取りできれば良い、そんな促成の担当を配置しても、美味い魚が並ぶわけが無い。冷凍ものはきちんと解凍し、鮮魚の加工も冷塩水処理をきちんとすれば、もっとまともな商品が提供出来るだろう。こんなことは基本中の基本ではないか。
 どうも、こうした基本さえも出来ていない気がする。

  店に並ぶ塩もの・干しもの・漬け魚・冷凍魚に慣らされ、店サイドの品揃えに不満を感じながらも日々買い物をせざるを得ない松本界隈の消費者は、「全く不幸である」は言い過ぎか。

 そこで魚好きの皆さん、たまには足を伸ばして買い物をしてみませんか。ついででいいのです。
 とりあえず、SMだったら「TURUYA」、専門店なら諏訪の「角上」辺りが目を肥やしてくれるでしょう。買う方も魚を知り、その上で「自分の都合を先立たせている店」を突き上げないと、いつまでたっても、またこれからは尚更、松本で美味い魚はなかなか食べられないでしょうから。

 漁港の市場といえば、コンクリートの床に吹きさらしの建物だが、魚津漁港に隣接した魚津市場は完全に密閉されていて、許可がないと中も覗けない。こういう市場は、承知している限り他には無い。ここまでしたのは、鮮度管理と衛生管理を徹底させ、折角の富山湾の魚を生かすためだという。こういう所と協定し野菜と魚の流通を併せ考えれば、双方にとって良いのに・売り場も随分変わるのにと常々思っている。
 これも、美味い魚を松本で手に入れる一つの手段なのだが。
  

 


晴遊雨働

こんな秋は無かったな~

 10月に入ってこの連休まで、本当に晴天続きだった。雨が降っても1~2日に集中し、ぐずつくことがなかった。全国有数の晴れ間の多い松本とはいえ、今年は特別な気がする。
 お陰様というかもう沢山というか、歩き・登り・走らせ・食べ・撮り・描き・そして書き、申し訳なくもすっかり秋に浸りきってしまった。明日からは天気が崩れると言うし、寒気も来ているようだから、やっと落ち着けるかな? 

 今日も晴天の中、里山歩きの帰り道。顔見知りのりんご畑でフジを1つもいでもらい、ほとばしる果汁にむせながら、もうルンルン気分で「秋~」と破顔一笑。何にも代え難い気分に足取りも軽かった。
 以下は、秋の味覚の最終版である。

 5日前のこと、「おお、居たか? 明日の昼に出て来いや」と筑北村の先輩から電話が入った。
 例年この時期に、きのこや秋野菜のたっぷり入った奥様手打ちのうどんをご馳走になる。
 狩猟解禁後なら、そのうどんと一緒に「獲物の分け前」にも預かるのだが、あれ!少し早いな?と思って出かけてみると、何と今回の獲物は「シマヘビ」だった。
 この時期、日が昇った後の山道で、日向ぼっこをして身体を温めている蛇に遭うことがある。先日も、田んぼ中にある運動場の小砂利の道でシマヘビに遭った。
 二十歳まで、嫌いなものは「蛇とニンニクとおかま(なよなよとした男)」と言い切っていた私だが、餓鬼のころから「料理された蛇」は口にしていたから(ガキ大将に食わされて)、久し振りに味わい深く頂戴した。気を遣って皿には2切れあったが、貴重品ゆえ「強すぎて後の持って行き場所がないから」と1切れにしておいた。が、本当は持って帰りたかった。

 帰りに立派な「西条ハクサイ」をみやげにもらった。この西条ハクサイは、旧本城村から坂北村にかけて作られている知る人ぞ知るブランド品で、過ってはJR本城駅から各地へ貨車で出荷されたものである。今は作る農家も減り、それと分る名で市場に出回ることもなくなったが、それだけに村外者にとっては懐かしい貴重なハクサイである。とにかく、柔らかく・甘みがあって美味しい。

 大きな鍋にしらたきが隠れるくらいの水を張り、厚岸コンブとかつおだしを入れるて暫く置く。そこにざんぎりにしたハクサイの白いところを敷き詰め、その上に残りのハクサイと大振りに切った「松本一本ねぎ」を乗せ、そのまた上に「くり茸」や「舞茸」を並べる。ここまでくると蓋が持ち上がる。
 強火にかけると、ハクサイの水が出て野菜が沈んでいく。野菜がひたひたになる前に、鍋の湯で溶いた味噌に醤油を少し加え、あくまで薄く味付けをする。
 中火にしたところで生食用の牡蠣と細切りにした刺身用の烏賊を置き、これが温まったところで火を止め、余熱で味を浸透させる。

 殆どハクサイの水気だけで炊き上げる「ハクサイ鍋」で、主役はハクサイであり牡蠣も烏賊も脇役に回る。
 こういうことができるのが「西条ハクサイ」であり、白菜の甘み・美味さが存分に味わえるし、薄味の汁の美味さは何とも言えない。大なべに入れるハクサイは半分だが、4人でお代わりしながらたっぷり食べられる。

 翌日、残った汁を漉して後半分のハクサイを加え、味を整えながら今度は魚のすり身を入れる。
ここからまた良いダシが出て、前日とは違った「ハクサイ鍋」が味わえる。「二日続けてハクサイ鍋?」と思われるかもしれないが、何の違和感も無い。脂の乗った魚や肉だと続けては無理だろう。
 最後は、卵を落としておじやにし全てを腹に収める。

 西条ハクサイ・中山の長いも・松本一本ネギ等など、この地には「画一的大量生産」の影に隠れた逸品がまだまだある。
 松本一本ネギのようなブランド復活の動きは喜ばしい限りで、消費者サイドでも応援したいものだ。それには、まず生産者側からの情報提供が欲しい。この地に生まれ育った私でも、知らない名産品があるだろう。
 何せこういうものは、狭い地域で細々と生産されているものだから。


 


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