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残るは芸事、消えるは歌謡曲?

白雲ひとたび去って

 知人の声掛けがあって先週の土曜日、中町蔵の館で開かれた三味線のおさらい会に顔を出してみた。三味線のおさらい会だからバチ捌きだけかと思ったら、殆ど俗曲をともなって演奏された。習い始めて5ヶ月の人も可也の年季の入った人もいて、それはそれで観ていて聴いていて楽しいものだった。中でも5歳から習い始めて5年目という少年もいて、大きな拍手を受けていた。

 「こういう場があって昔のものが引き継がれていくということは良いことだね」とは、後ろにいたご婦人方の話し。
 確かに、三味線にしろ唄にしろ、芸事・習い事として習う場があれば引き継がれ残っていく。また生活の中に溶け込んだものであれば、身近なところで引き継がれていく。 
 例えば沖縄地方でも津軽地方でも、機会があればごく普通のひとが当然の如く弾き唄ってくれる。

 ところが松本(あるいは長野県か)界隈では、三味線や俗曲を習っているというと、特に男の場合は軟弱者とか遊び人とかにとられがちだ。どうしてもひとつ向こう岸においてしまう。
 ピアノやバイオリンというと、えらいね~と賞賛の対象になる。この差はなんなんだ!
 三味線や俗曲が嫌いかというとそうではない。最近とんとその場が少なくなってはいるが、結構その気になって楽しんだ人は多い。どうも、この楽しんだ場所や雰囲気に繋げてイメージ付けをしているところに原因があるようだ。
 ということは、好き嫌いじゃなくて「分っていない・関心がない」というではないか。

 しゃれた粋な言葉遊びを三味線にのせて唄う。また単純かつ不器用な三味線という楽器を器用に扱い、言葉に表わせない感情を表現する。
 この江戸文化を「分っていない・関心がない」と言いたくなる松本が、松本城を真ん中にして成り立っていこうとするのが何とも皮肉に思えてきた。

 気分転換もあって、久し振りに「まるも」でコーヒーを飲んだ。
 「まるも」の良さは、コーヒーの味はともかく隣が全然気にならないことだ。だから長尻のお客が多い。この雰囲気は、心地よいクラシック音楽とともに50年近く変わっていない。

 コーヒーを啜りながら、ふと気になった。
 習い事・伝統芸能は残す場があり残っていくだろうが、「歌謡曲」は誰が残すのだろうかって。

 明治の街頭歌はともかく、大正・昭和の「歌謡曲」は歌い手が居なくなれば消える運命なのか。
 江戸時代の町民文化は、俗曲ばかりでなく、話芸としての落語・文学としての都都逸などなど「日本の伝統文化」として残される道がある。
 「歌謡曲」は、その歌詞だけが取り上げられて残ることはまずない。曲は演奏されることもあるだろう。でも、「歌謡曲」として歌って残される道はあるだろうか。
 「叙情歌謡」と称されるものは、クラシックの歌手が歌い残すかもしれない。
 「歌謡曲」もナツメロの名曲として取り上げられれば、歌い継がれるかもしれない。いわゆる「演歌」も同様だろう。

 「歌は世に連れ世は歌に連れ」だから変遷・淘汰もあるだろうが、あらゆるジャンルの歌に首を突っ込んできた身からするとどうも気になる。
 松田聖子が喉を締め上げるように歌って、若者の歌い方が変わった。
 サザンオールスターズが巻き舌で歌って、「日本語の詩」の重みが変わった。
 キャンディーズやピンクレディーが「ノリ」を加えた。
 こんな風に徐々に変化し続けてきたが、美空ひばりが歌わなくなった辺りから大きく様変わりした。 この様変わりは、かってない程のものだ。
 この変化の後にさて、「歌謡曲」は歌い継がれるだろうか、「歌謡曲」が残っていく土壌があるのだろうか。

 おさらい会が、とんだ「歌謡曲のおさらい会」になってしまった。



 

 


地球侵略!

出動!宇宙戦艦ヤマト

 第一回忘年会の招集がかかり、例の三人組が集まった。
 のっけから私のブログについてのコキオロシ?で、“よっぽど暇してるな~”とか“ビジュアルに欠けるぜ”等とやられたが、極めつけは“2~3日置いて見た方が良い様だな、加筆・修正があるから”だった。
 いや、本当に申し訳ない。

 “ところでな”と、おもむろに【会費トントン】が切り出した。
 「外人とは、性交は出来ても情交は出来ない」と言ったのは梶山季之だっけ? けだし名言だと思ってな、これに倣って
   言葉も気持ちも通じるのが同胞
   言葉は通じないが気持ちは通じるのが異邦人
   言葉も気持ちも通じないのがエイリヤン・ET・異星人って言ってみたが、
最近身の回りにETばかりだと思わんか? 何だか訳分らんわ!」
 ウンウンと残りの二人もうなづいた。
 「こういうことってさ、俺達が歳をとったせいばかりじゃ済まされんだろう。ますますおかしいぜ、世の中が」と続く。
 確かに「おかしい!」と思うことが有り過ぎるが、関係することはブログにも書いてきたから口をつぐみ、会費負けしないよう料理に箸を伸ばしていた。

すると、いよいよ【絶対に会費負けしない】のが口を出してきた。
「何だ、知らねーの? 
 あのな、地球は侵略されているの!
 1950年までは偵察だったけど、それから後は侵略さ、分る?」
また始まったなとニヤニヤしながら、それでも、何だそれは!誰に? と水を向ける。

待ってましたとばかり、話しが続く。
「デスラーだよデスラー、デスラー総統一派だよ。」
何だ、宇宙戦艦ヤマトじゃねーか!
「そうさ、その一派が乗り込んできてるのさ。初めはな、地球人に化けて、化けてだよ、乗り込んできてな、それとなく悪さを仕掛けたのさ。ああ、悪さの種も蒔いたさ。あっちこっちで起きた紛争や国家分裂もそのせいさ。
 だけどな、連中もその手は時間がかかることに気付いたから、新しい手を加えたんだ」
何だそれは? と立て板に水を流してやる。

「化けた連中は単独行動もしたけど、地球人と結婚もした。もう、そのETの二世三世が動き始めているんだ。これはえらいことだよ、ネズミ算で増えるから。でもな、それでも時間が掛かりすぎるから、ウイルスを使うことにしたんだ。エイズもそのひとつさ。」
 侵略は分るとして、どう狙ってる訳? と火に油を注ぐ。

「地球人類の衰退と奴隷化さ。
 そんでな、新たな手段のテストに選ばれたのが日本さ。右向け右!右に倣えだからな。
 先ず、上に立つものにウイルスの粉をかけたのさ。政治家や学校の先生や、とにかく要に居て影響力のある連中にな。政治や教育がおかしくなっているだろう。だから、もとからおかしくなっていく。穏やかに長生きできる国じゃなくなってるのさ。
 それと、若い学生連中にも掛けたな。
 医学博士が書いた本に、“フリーセックスと称して若い内から数をこなしていると、膣が厳しさを失い、本来の精子の選別機能が甘くなってしまう”ってあった。何もかも締まりが無くなるんだってさ。
 そうすりゃどうなる? 
 直接産んだ子とウイルス感染した子、それに無選別で出来た子が増えれば、2代3代と待たなくてもな、右に倣えに加え脳味噌がずれたおかしな人間ばかりになっちゃうよ、この国は。
 だからな、気になる訳の分らぬ人間てのはそういう人間よ。それが増えてるわけよ。」

 ヤマトが緊急出動しても駄目だな、波動砲がきかないもの。とチャチャを入れる。
「ああ、駄目だな。侵略阻止ワクチンが出来ない限りな。」
 荒唐無稽な話しであったが、妙に納得するところもあるからやりきれない。
 それにしても、ETまで持ち出さないと説明つかない混沌には、ただただ溜息が出るばかりだし、折角の酒も悪酔いの種になりそう。

 帰り際、改めて【会費負けしない男】の顔を見た。
 思い違いばかりでなく、どこかデスラー総統に似ていた。
 さてはコイツ・・・。




大和ごころのDNA

無意識のこころを生む

 いわゆる「善」の方向に心が向かうのに、
“無意識の内”ということは有り得ないことではないかもしれないが、私ごとき凡人には考えられない。何時か誰かに、あるいは何処かで何かに教えられているはずだ。
 ただ、その教えを素直に受け入れた“感受性”には、生まれながらに備わっている何かを感じてはる。
 それが日本人という括りでみてみると、漠とはしているが共通のものがあるような気がする。それこそが日本人の「大和ごころ」のDNAではないか。

 一昨日は良寛様の「戒語」を借りて、平素の人間関係の基になる“身持ち”のDNAを探ってみた。
 昨日は神・仏を借りて、日本人固有の“信心”のDNAを探った。
 今日は武士道を借りて、“身を処する”うえでのDNAを探ってみる。

【四季の美がもたらす心の一端】
 「敷島の 大和ごころをひと問わば 朝日ににおう 山桜花」
 知られた歌であるが、パッと咲いてパッ散る潔さだけに引用されてはもったいない。
 咲くその季節 ・さまざまに変わる色合い ・淡く降り懸かる匂い ・小さな花がお手玉のような塊になり、またそれが集まって花の木を成す見事さ ・西行法師が歌った霊感などなど、桜木を観る日本人は、それぞれがそれぞれに深い思いを寄せ特にこの花を愛でている。
 歌によみ、詩に残し、小説に書き、絵に描き、写真に撮り、宴を開いて花とひとつになりと、自分に出来る手立てを講じて自分の中に取り入れようとしてきた。
 ここにも、大和ごころに通じるDNAがある。

【言霊に向かう心】
 レデイース&ジェントルマン、日本語表記なら紳士淑女。この紳士淑女の呼びかけには、どうもピンとこない。 かの国々では、ひとかどの成人男女を指して紳士淑女と呼ぶようだが、日本ならさしずめ武士貞女。「武士(さむらい)の様な男気のひと、まさに大和撫子」と評された方がその人と成りがピンと来るし、言われたほうも満更でもない面持ちになる。
 様々な場面で「愛している・・」が連発されているが、「いとしい」という方が気持ちが汲める。
 やはり、外来語よりも大和ことばの方がこころに染みくるのだ。
 仏教伝来から始まり多くの外来語を消化してきた日本人も、大和ことばに対する感性は無意識の内にも持ち続けている。言霊の幸く国の民である。
 ここにも、大和ごころのDNAがある。

【武士道】
 繊細な美感を形に残したのが公家衆であるならば、枯淡の美感を残したのが茶人であろう。
 では、武士は心の中に何を残したか。
 それは、自らの生きざまと儒教の教えを踏まえた、「恥と至孝の心構え」であると思う。
 「恥を知る・恥を知れ」は、時に欲望や本能までも抑えて自分を律する場面に繋がった。
 「孝」の字は忠孝として、孝行と忠義を説いた。
 「恥と孝」、これを今にみれば、
 「恥を知る・恥を知れ」は日本人の自負心であったはず。「公に対して恥ずかしいこと」も勿論だが、「自分に対して恥ずかしいこと」が厳しく問われた。
 改めてここが思い出されれば、阿倍さんが旗を振らずとも日本は「美しい国」になる。
 忠孝は曲がって戦に利用されたから今や死語に近いが、「孝行」を開けば人を傷つけ・殺すことはなくなるだろうし、「忠義」を開けばその任にあたるものが席を汚したり悪事の脇道に逸れることもなくなるだろう。
 武士の台頭は平安時代からかもしれないが、武士道に繋がるものはもっともっと日本国の歴史を遡れる。
 有史以前の時代でも、危険に立ち向かう時、また家族・一族を守る戦いにあたっては相当の心根で向かっただろう。見送る者はその姿に何を見たか。行く者は見送る目を見て更に何を感じたか。農耕の始まった時代になれば、戦うということは極めて特別なことであり、行くその姿は強烈に焼き付いただろう。行く者も更にである。
 鎌倉・室町になればそこに武士の文化が加わり、その中には精神的なものが整理され加わる。
 武士の武士たる姿と動きは多くの人々の知るところとなり、一方で民の評価も受けたであろう。
 こうした中で、武士道は武士だけのものではなくっていったのではと推察する。
 折角武士道の名を借りても、これだけではその真髄を突いてはいないだろう。が、これだけのことを呼び戻しただけでも、大和ごころのDNAが掘り起こされ気がする。

 *この地の大和ごころ
  山岳・学問・音楽の三ガク都の松本だ。しかも、城下町である。
  盆地の中で息を潜めていては分らないだろうが、これほど「大和ごころ」をものにする条件の揃
 った所はない。
  諸事開催にあたっては、この「大和ごころの魂入れ」を意識していったらどうだろう。

【余談】
 戸田氏松本城主時代の享保10年(1728年)から文政5年の94年間に、133人が死罪になっている。但し、その内43年間は執行していないから、51年間に133人、年平均2.6人である。
* 刑罰の内で死罪対象の罪名の中には、これなら今では死人だらけというものがある。
 似せ薬を売り候者                   ~引き回しの上死罪
 金子入りの書状・請けとり、道中にて切り解き遺捨て候飛脚・金子の多少に依らず ~同上
 密通致し候妻 妻・妾の別なく            ~死罪
 密通の男                         ~死罪
 片輪もの所持の品を盗み取り候もの          
~死罪
 車を引掛け人を殺し候時・殺し候方を引き候もの ~死罪
   但し、人に当たらざる方を引き候ものは     ~遠島
       車の持ち主は                  ~重き過料
       車引き家族は                ~過料
 家庭内暴力・親に切りかかり打ちかかり候もの  ~死罪
 火をつけ候もの                      ~火罪
 
 *幕府が細かく刑罰とその執行方法を決めていたが、こういう厳罰主義とその徹底も、連帯責任
 制度とともに善悪判断に至る教育的指導となり、心根に刻まれていったのであろう。                
 


私の神様・仏様

今更この歳になってですが

 我が家が神仏混淆の最たるものであることは、10月25日に載せた。無宗教と言われればそのとおりであるが、信心深い人間だと思っている。しかし、その信心の中身は?と尋ねられると即答出来かねることに気付き、今更でありこの歳になってではあるが、私の中の神様・仏様にそれぞれの御席・台座に改めて着いて頂いてみた。

【神様・神道】
天におわします神 ~宇宙全ての不可思議を司る神
八百万の神     ~身の回りのあらゆるところにおわす神々
皇室神道      ~天皇のみが継承する神々で、その長い歴史がもたらす余慶は国に広くく
             及ぼしている。
             『日本書紀にある「天皇信仏法尊神道」は神仏混淆の一つの始まりか』
神社神道 1    ~その地域に根ざしたその地の守り神
神社神道 2    ~天照大神に始まる国津神々を祀る
神社神道 3    ~聖人・賢人・偉人・武人・有徳の人・功績ある人等を神格化して称え、且つ
             その「力」を授からんとする
神社神道 4    ~山岳信仰など固有の神を信仰対象とする
教派神道      ~独自の神を信仰対象とし、教義・経典(未確認)を有する
             (新興宗教的神道は全くあずかり知らぬところ故、ここに含まず)
稲荷神社      ~お稲荷様として親しみをもって参拝する 
 私の神様の御席を分けてみるとこうなった。
 今までは混淆ならぬ混在であったのが、随分すっきりできた。
 改めて気付いたことは、
1.いつの間にか心の中に在り、いつも神様の存在を意識し続けてきたこと。
2.それは、天におわす神であり八百万の神々であったこと。
3・特別な場合を除き、祭神を問うことも無く、社があれば石碑があれば頭を垂れ手を合わせてき
  たこと。
4.教義・経典なるものを見たことも聞いたこともなかったこと。
  「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙せぬ国」だから、あえて“心のまま”を形にすることもな
  かったのか。「磯城島の大和の国は 言霊の助くる国ぞ 真幸くありこそ」だから、祝詞に魂を
  込めたのか。
5.にもかかわらず、生活規範から始まり多くの示唆をうけていたこと。
  概ねこういったところである。

【仏様】
1.ご先祖さま
  辿れば地球46億年の中の生命30億年の時の流れ。そこまではともかく、150万年の人類
 に至る歴史を思えば、あだや疎かに出来ない命であり、祖先への感謝である。  
2.お釈迦様・諸佛・諸菩薩
  私の仏教の系譜は、お釈迦様=玄奘三蔵=鑑真和上=良寛=私である。家は浄土宗である
 が、開祖は法然上人であり総本山が知恩院であること以外知らない。むしろ、禅宗(曹洞宗)に
 惹かれることの方が多い。
  菩提寺があり檀家であるから仏教徒かと訊かれれば、否と答える。その割りに、仏教に関わ
 る本はかなり持っている。従って、仏教に関しては宗教という面よりも、学習・修養として、意識
 して何かを身に付けようとした対象の色合いが濃い。どうも仏教は、頭から心へと降りてきてい
 る。
      「一切衆生悉く仏性を有す」 ~ お釈迦様のことば
  「災難に逢ふ時には、災難に逢ふがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。
   是はこれ、災難をのがるるの妙法にて候」 ~良寛様
  この二句が、私の仏教観の全てかもしれないと思っている。


【宗教観】
 かねてより、宗教はウサンクサイものだと思っている。
 洋の東西を問わず、人の道を説く宗教が、諍い・戦いを仕掛け、どれだけ多くの人を傷つけ殺し苦しめてきたか。未だに続いているではないか。そして、分派分派の連続。この二点をもってウサンクサイと思うのだ。
 日本の神ながらの道には、私の知る限りそうしたことは無い。(国として統一されるまでの過程でのことは、あえてその類に入れなくても良いではないか。想定以外何も残っていないのだから)
 だから私は無宗教である。しかし無神論者ではない。

【お宮とお寺】
 お宮といっても、私感覚で分けても6つある。いずれにしても、もっと大切にしなければと強く思う。それは、日本人のDNAにしっかり組み込まれているものなのだから。
 日本の豊かな四季が、日本人の諸感覚を育ててきた。その諸感覚を以ってこそ、日本人の存在が認められるのだ。その同じ線上に「神ながらの道」があると思う。
 皇室神道が即ち「日本の神ながらの道」であるとの認識が強いとしたら、それは「お宮」に携わる者が積極的に前に出て誤解を解かねばならない。何も宮司だけの務めではない。村の長老達も、産土の神の祭りには、その謂れを引き継いでいかねばならない。
 お寺は、檀家制度を引きずり、葬式仏教で安穏としているようでは先が見えている。いつどう現在に受け入れられる活動を始めるのか、衆生は見ていないようでしっかり見ている。

【日本人は無宗教?】
 本来信心深い民族であると思う。
 神道にしろ仏教にしろ、時の為政者(国策)に利用され、またその後は放置されてきた。その後遺症もあるだろう。しかし、
 教義・宗派に属さなければ無神論者と言われるのは、日本人の信心深さからすれば的を外している。
 残念なのは、己の信心深さを忘れているか気付いていない日本人がいることと、日本人の信心深さを掘り起こして今の混沌とした民情を変えようとする動きがみられないことだ。
 
 
 
                         


良寛さまの戒語

常に戒められています

 「下手な説法よりも良寛の生きざま」といわれるが、その良寛様が自らの戒めのために書き残したものが「良寛の戒語」であることは、よく知るところである。
 師走も6日、戒語のいくつかを破りながら、本年が丸く収められるよう改めて開いてみた。

【こころよからぬものは・・・】
言葉の多き  口の早き  とはず語り  さしで口  手がら話  公事のこと  へらず口    喧嘩のはなし  人のことばを笑う  唐ことばを好みてつかふ  おのが意地をはりとほす    ひとの顔色を見ずしてものいふ  もの知り顔のはなし  この事のすまぬうちにかの事いふ
あやまちをかざる  くれてのち其の事を人にかたる  学者らしいはなし  返すといいて返さぬ
にくき心をもちて人をしかる  悟りくさき話  酔ふてことわりをいふ  かしましく物いふ
こどもにちゑつける  ふしぎ話  腹たちながら人に理をいふ  神仏のことを軽々しくさたする
親切げにものいふ  人をおだててなぐさむ  人に物くれぬ先にその事いふ 
おれがこうしたこうしたといふ  この人にいうべきをあの人にいふ  鼻であしらう  
きわどくものいふ  あくびとともに念仏する 

【こころづきなきものは・・・】
布施の多い少ないをいふ  聴法の座にものいふ

【にくきものは・・・】
人を見かぎりたこといふ  にげごとをいふ  はなであいさつする  はなしの腰をおる
おどけのこうじたる  おのが得手にかけていふ  人にはぢかかす事いふ  ことばとがめ  
おのが悪しきことを人にぬりつける  ぐちたはごと

【おだやかならぬものは・・・】
いくさのはなし  あらかじめものの吉凶をいふ

【うるさきものは・・・】
つげごとの多き  口上のながき  おとしばなしのながき  ひとつひとつ数えたててものいふ

【こころあさくおもはるるは・・・】
みだりに約束する  しもべを使う言葉のあらき  あごを出して歌よむ

【いやしげなものは・・・】 
はやりことば  ねだんづけ  

【いむべきは・・・】
うたよみのうた

【題づけのないもの】
若い者のむだばなし  こはいろ  人のいやがるおどけ  くちまね  客の前に人をしかる
茶人くさきはなし  口を耳につけてささやく  をろかなる人をあなどる  品に似合わぬはなし
神仏のみ前にて妄りごとをいふ  ふしだちたることば  いかつがましく物いふ 
はやまりすぎたる  世になかに人なしげにいふ


 良寛様にしてこの戒め。 
 いやはや、12月が36月になっても、ただただ恥じ入る我が身が残るばかり。
 それにしても、「人」とは変われぬものですなぁ~。
 市井の一小民がこうして開くのですから、どうですひとつ。
 それぞれの席や責に就くみなさまも、我が身に照らして開かれては。影響力大のみなさまですから、随分と世の中のモヤモヤがなくなると思うのですが。 

商いは飽きない。誰が?

広域松本圏で考える

 この三日間、音楽・学問・山岳の「3ガク」にこじつけてきた。今回の締めは、3ガクに「商」を加えて広域松本圏を考える。

 松本市内の商店街といっても、今や本町・伊勢町・中町・高砂通り・駅前通り付近・大名町くらいになってしまった。通り通りにあった「商店街」は姿を消し、僅かに個人商店が残っているところもあるが、それにしても、商都との昔の面影は無いに等しい。
 「こういう現象は全国的なもので、何も松本だけではないわ!」といわれればそのとおりで、共通する原因もあげられている。

 しかし松本は松本で、自分の足元を見つめるべきこともあるのではないか。
 いかに山紫水明に国宝松本城が加わろうとも、商店街の灯が消えたら賑わいのある故郷でなくなるし、夜間の紅灯ではこの代わりは務まらないのだから。

1.物流に時間と距離は関係なくなってきている。
  過って松本は、入り馬・出馬千駄と唄われるほどの商いをしていた。当時は、物の流通に大き
 な時間と距離が伴っていたから、中継基地の役割は大きく、またあらゆる商品提供の場も不可
 欠だった。
  しかし、交通の便が良くなってまず時間差が縮まり、個々が交通手段を持って距離を縮め、幾
 つかの媒体が流通手段を提供するようになると、「入り馬・出馬千駄」の感覚のままで店を開い
 ていては、あまりにも消費者の欲求とは掛離れた存在になってしまう。

  昔からの店だから、「お客は来るもの」・「来たお客には売ってやる」の雰囲気が伝わってくるよ
 うでは駄目だ。
  「わざわざ我店にお越し頂きまことにありがとうございます。どうぞごゆっくりご覧ください。な
 お、お手伝いさせて頂きますので何なりとご用命ください。
   お気に召していただけましたでしょうか。もし何かございましたら、恐れ入りますがご一報くだ
 さい。ありがとうございました。どうぞお気をつけて。」くらいの、「感謝とおもてなし」の心で店を
 開いていないと。
  7年程前のことである。少しまとめて生活雑器を買ったので価格交渉をしたら、10%引いてく
 れた。カードで支払おうとしたら、それなら5%だという。これには参った。以後行っていない。

  加えて品揃えでは、「地元の生産物」・「訳ある商品」・「都会にある商品」・「我店ならではの
 商品」のいずれかが見て取れないと、お客の足は止まらない。
  6千円払えば新宿にいける。電話でFAXでクリックで商品が届く。

2.孤立していては力にならない。
  中町がいい例だ。ひとつのエリアとして街づくりをしたから人が集まる。本町・伊勢町は「モダ
 ン」に走るのか、大名町は「昔造り」に進むのか。いずれにしても、共同参画して「街で買い物が
 楽しめる街づくり」をしないと、老舗だけで通用する世代は消えつつあるし、そこに在るだけの店
 では、客は通行人で過ぎていく。
  「商いは飽きない」だというが、これは内向けのことであり、「飽きさせない」が外向けの姿勢で
 はないか。

3.広域松本圏
  同様のことは近隣の市町村にもあることなので、商工会議所・JA・行政の関係者が集まって、
 よくよく話しをしてみるといい。(大町市から塩尻市まで)
  所詮、この地域の消費人口は30~40万人くらいのもので、今後大幅に増えるとも思えない。
  そこでまず、
  自地の消費者の目はどの方向を向いているのか。どういう行動をとっているのか。
  地元で購入するものは何か。運賃をかけても出かけていって購入するものは何か。
  今後予想される消費行動はどうか。
 を分析し、その上に立って、外からの誘客に策を転じないと先細りは目に見えている。

  松本がこの地域の中心であった、またあることは間違いない。しかし、今や東西南北軒が繋
 がり、地域分断要因の川も問題にはならない。
  「商店街」といえば狭いエリアであるが、これひとつをとっても広い地域の中で生かされてい
 る。まして、この地域にひとが集まる・集めるということは、産業・文化をひっくるめて魅力あるも
 のにしないと、ここだけの人口では持たせきれない。
  それには、地域分業もあるだろうし地域分担もありだろう。是非、広い視野で考えてもらいた
 い。その際排除すべきは、小さくは商店主の、大きくは行政単位の「エゴ」だろうな。

4.市長に対する期待大
  深沢・和合・有賀と3代の市長の地ならしを経て、菅谷市長を迎えた。
 深沢・有賀市長とは、よくよく話しをさせて頂く機会も得ていた。有賀市長が市行政に民間感覚
 を導入した時には喝采をしたものだ。
  感じるに、菅谷市長は特に「創造的バランス感覚」に優れた方だ。(以前のページにも載せた)
 私は、市行政のみならず、この地域のリーダーとして大きな期待を寄せているし、出来るバック
 アップは何でもしたいと思っている。(そんな力もありませんが、せめて気持ちだけでも)
  上田市の市長との美ヶ原対談は、市民に市の在る位置関係を改めて認識させるヒットであっ
 た。こうした多角的・立体的視野で、街の在り方から広域圏の活性化までタクトを振ってほしい。

 

 


  
  




 

 


山はそこに在るだけ

高さも美しさも見る人しだい

 先日TVで、日本人の公徳心欠如を取り上げていた。
 国宝への落書き、自然遺産への破壊的傷つけ、公共物が受ける損傷、ゴミの投棄等など。
 「私」を大切にするほどには「公」を扱わない。人目が有ると無いとでは、やることが違う。
 人目がないと(自分が特定されないと)、相当なことをしでかす。しかし、最後の尻拭きは常に「公」を頼る。

 「何とも言えない嘆かわしさ」との向きを話したら、「日本ばかりじゃない。大方の国も同様だし、もっとひどいところもあるさ」との返しがきた。それを知らぬでもないが、横並びで見ることも、ましてや下を見て安心することでもない。
 そこで、このDNAはどこで身に付けられたか話した。アルコール含みの割には、なるほどと思わせるやりとりになった。
 三人で話すのが一番盛り上がる。二人でも四人でも駄目だ。

 2時間を要約すると、
 「貧しさ(経済的・文化的・精神的)故に染みついたものである」 これは直ぐに口の端にあがった。 しかし、現在憂慮されている文化的・精神的貧困からは分らぬでもないが、長い日本の歴史の中で、どれをとってもDNAとして身に付くほどの貧しさが続いてきたとも思えない。

 「豊かさ故に染みついたものである」 これはかなりの説得力があった。
 豊かさとは、自然の豊かさである。水が豊富、緑が豊富、魚が豊富、海に囲まれている、四季が実りをもたらすetc・・・。
 三尺流れれば水清し、だから川に物を流す。水と空気は無料・無尽蔵、だから扱いが粗末。四季が生物を再生してくれる、だから根こそぎとってしまう。
 こうしたことが許される環境がいつ頃まで日本にあったか分らないが、「再生」を当たり前のこととし「保全」を意識せず使い放題・捨て放題で暮らしている内にDNAが形成され、環境が変わり新たな意識や価値観が求められても100%順応できない部分が残ってしまったというのだ。

 「厳しい自然環境にないから身につかなかった」 これも分る。豊かさの反対かもしれないが、厳しさを知らなければ真の豊かさは分らないから別問題だ。
 砂漠に住めば、水は命そのものである。荒涼・酷寒の地に住めば、緑は生命の象徴であろう。
 環境の厳しい国に出来る規律は極めて厳しい内容になるし、厳しい規律がなくても規律に依らずとも、自ずから自律の精神が身についていく。

 「国境を接していないから、善きにつけ悪しきにつけ他人と比較できないできた」 つまり、同質性民族で過ぎてきたからだという。だとしたら、この100年間に学んだことはなかったのか。

 「国も貧しかった」 確かに、公害が取りざたされ法規制の網がかけられたのは、そう遠い昔のことではない。国は国民の集まりだから、国民のDNAは国のDNAにもなりうるわけだ。

 「目先、自分・今・金だけで生きているからだ」 これも分る。その次の繋ぎは「怖いものがなくなっている。昔は、地震・雷・火事・オヤジとその上に神様がいた」
 確かに!
 

 落書きや器物損傷にみる公徳心欠如の話しが「国や神様」の段階まできてしまったので、“まあまあ、この辺にしとけや”ということで収められた。
 最後は、絶対に会費負けのしない釣り好きのオヤジの一言が効いた。
 「山ってのは海から見れば高いけんどさ、本当の高さは登ってみなけりゃ分らんもんさ」
 なるほど山はそこに在るだけで、高さや美しさは見る人間のこころしだいというわけ。環境やDNAはどうあれ、保全・再生の目と心を個々人が持たない限り本物にはならないというわけだ。
 「じゃ~、個々人に目と心をもたせるにはどうするの?」と訊きたかったが、それを切り出すと日付が変わりそうなので止めた。 

 *山紫水明は松本の宝だ。山紫水明に抱かれて街中も住居地もあるから一体のものである。
  外来者の多いこの豊かな地を保全・再生し続けるには、先ず市民がそのための目と心をもって
 環境をつくりあげ、好ましからざる手の出ないようにしておかねばならないのだが・・・。

      【 やすけきは 今にかわらぬ故郷の 朝な目にする その彩に】

 


 
 
 

 


教育基本法成立?

話題の2法案成立か?

 学ぶとは、まず心を養うこと。養った心をもって表現するのが「言葉」。
 「イジメについて」の中で、先に立つ者・目立つ者達が率先して「公序良俗」の範を垂れることが早速の解決の糸口と書いたが、「まともな論戦がみられない国会」で話題の2法案が成立の見通しだ。
 それにしても、「真正面からの論戦を避け、論点をはぐらかし通した小泉さん」・「言葉数が多く、立て板に水で話す安倍さん」、どちらにも政治家としての言葉の重みは感じられない。政治は論戦を経て目に見えるものになるのだから、当然政治家としての資質もつきまとう。
 加えて、郵政民営化反対議員の復党に関わる、どっちもどっちのドタバタ劇。
 これほどまでに「言葉の重みを問われない国会」にこの国を託していいものか。政治家も悪いが国民も未熟だ。言葉の扱いが軽すぎる!
 言葉が軽いということは、心の養い方が足りない。心が養われていないということは、学びに不足があるということだ。

 そんな中で、教育基本法が改正されと防衛庁の省昇格が決まりそうだ。
 「アメリカの属州」との揶揄(あるいは実際)を断ち切り、真の独立国家としての存在を確保するには、戦後「GHQ主導で作られた諸々のもの」を見直す必要があると思う。
 GHQの指導がなければ、当時の日本人の感覚では構築出来なかったこともある。一方で、自国においても掲げられないような「理想郷化」を押し付けられたものもある。
 そうした幅広い検討分野を、同時に必要とする2法の改正である。
 
 【自由・平等】
 公序良俗を踏まえた上での、社会的活動の自由である。もっと言えば、日本人としてのアイデンティティっを持った上での自由であり、これに伴うものは責任と制約である。
 平等はまず基本的人権の平等であり、法の前の平等であり、社会的恩恵の平等である。これを踏まえて、平等と公平を混同しないようにしなくてはならない。

 【教育基本法】
 戦後の教育がどこかの時点からおかしくなり、今日多くの問題を発生させてさせているからには、日本国としての教育の在り方を見直す必要がある。
 江戸時代の寺子屋・私学・私塾からはじまり、教育の機会を大切にしてきたから「先進国の一翼を担う」までになっている。教育・学ぶことは人づくりであり国づくりであることは、日本人が世界にさきがけて実証したことである。
 この教育が崩壊とまでいわれているからには、単に現場がどうのこうのというばかりでなく、政治家・官僚筋・地方行政筋・教育現場までが、教育再生に向けてひとつになって動けるような、そういう教育基本法の肉付けを急ぎ、また間断なく続けないといけない。

 【日の丸・君が代】
 国旗日の丸は、日本のシンボルである。これに対し、内外で侵略戦争の陰を見るからどうのこうのというのは、国旗日の丸に問題があるのではなく、「きちんとしたケジメを示さないこと」に起因している。そこのところを踏み間違えないでもらいたい。国旗日の丸に罪は無いし、国旗の無い国はない。世界で最も早い日の出を迎える国に相応しい国旗ではないか。
 国歌君が代が取りざたされた時、「♪我が日の本は・・・」と歌い出せば良いのにと冗談を言ったことがある。「君」は天皇を指しているのだから云々と言う人もいるが、それは新憲法草案の段階で「国の象徴~シンボル」などと苦渋の訳をせざるを得なかったことが原因のひとつだ。その位置づけに異論はないが、私は、天皇は日本国の「核・コア」であると思っている。どの時代からを取り上げるかはともかく、紛れもなく「一人の天皇を核にして」日本国は成り立ってきた。その長い歴史の上に今日があるわけだから、「君は天皇であると同時に、天皇を核にして成り立っている日本国」であると解釈し、国歌君が代を歌う。

 【防衛庁が防衛省に】
 この機会に、国防ということを考えるべきだ。
 GHQは新憲法に軍備の完全放棄を盛り込ませた。ところが、程なく共産主義侵略の防波堤が必要になり、自分からは言い出せないところを突いて「講和条約」に結びつけたのが吉田茂であると承知している。安保条約により米国の笠の中に組み込まれ、警察予備隊・保安隊・自衛隊と規模を拡大しつつも、一方で政治の中心は経済の復興に集中出来た。
 それはともかく、独立国家として自分の国は自分で守らないでどうする。世界は常に流動的であり、教条主義的な理想・理念だけで現実は過ぎていかない。
 専守防衛・非核三原則など、国是として堅持、世界に範を示していかなくてはならないことはある。同時に、基本的国防というものをもっと真剣に考えて良い。
 第2次世界大戦は、表立っての植民地政策をNOとする共通認識を世界にもたらせた。しかし、違った形での侵略・抗争は途切れることは無い。その根は、恐らく「人間の業」にかかわるものだろう。そして、武器は使い事を前提に造られ装備されていることも忘れてはならない。
 だからといって国防というとすぐに軍備に目がいきがちだが、それ以上に重要なことは、
外交力・食料自給率の向上・国土保全・人材を育てる教育・産業振興等であり、これは国力の基本的不可欠事項でもある。
 防衛庁が防衛省になるのなら、こうした幅広い視野に立った国防力を具現化するよう努めてほしい。制服組の長年の悲願達成!で終らせないように。

 * こうして、とかく微妙と言われることにも真正面から向き合って「日本国」を理解していくこと
  が大事ではないかと思う。その過程で、自ずから国を尊ぶ心が生まれるのではないか。初め
  に愛国心とはこういうものだと定義するから、ややこしくなる。
   「日本国」につての理解に諸説あるいはそれぞれの立場での見解があるのなら、国家統一
  以前のこの地での生活に思いを馳せてみればいい。弥生時代で不足なら縄文時代に、それ
  でも足りなければ石器時代まで。言葉の成り立ち・信仰のあり方・人の移動・物の流れ等、全
  て今日に繋がっており、そこに「日本国」があるのだから。
   突然今になったわけではない。
   こうしたことをきちんと教えるのが「教育である」と思う。それを学ぶことで心が養われ、言霊
  の国に相応しい言語で物事が執り行われるようになる。 

 ところで、信濃教育会はいまどうなっているのだろう。教育県長野を象徴するものであったし、確かな理念・理想をもとに教員の育成と教育内容の充実に大きな力を発揮していたはずだが。
 
  
 
 
 
 
 

 



 


紅白歌合戦

歌は世に連れ銭に連れ

 紅白歌合戦の視聴率低迷に歯止めがかからないから、今年はまた原点に返ってみるとの記事があった。低迷といっても30%台にあるのだから相当なものだと思うが、一体どのくらいの支持が(聴視料をとっているHNKとしては)お望みであろう。~【聴かせてもらって視せてもらって払うから聴視料。アンテナを立てているだけでとられるのが受信料】


 レコード大賞を横目に年取りを済ませ、家族揃って紅白歌合戦を見ながら年越しの時を待つという国民的行事が存在したのはいつまでだっただろう。昭和50年代いっぱいは、それでも形としては残っていたかな?
 
 「家族揃って八百万の神々に感謝しつつ年末年始のケジメをつける」という日本古来の貴重な風習・行事は、「それぞれがしたいように・思い思いに過ごせばいいさ」に取って代わられた。
 親父が伝統を守ろうとしても、子供に物分りのいい母親が「そんな時代ではない」と口を挟む。
 大晦日も元日も営業する施設が増え、身の置き場所には困らない。国の内外の行楽地で新年を迎える人もある。娘の行動に親の規制がかからなくなったから、若い男女は忙しい。自慢の車を飛ばして
、いつでも好きなところフェードアウト。
 「お仕着せの定食番組」など眼中に無い。

 国民歌謡ならずとも「国民的歌謡」のある時代は、家族揃って口ずさむことができ、ご当人の歌唱に少なからぬ拍手を送りつつその健在を確認したものだ。
 祖父母から孫まで、三代にわたって唄える歌など昔も今もそうはない。しかし、その場にいて「唄わずとも一緒に過ごせる歌」はあったものだ。
 それがどうだ。ジジババの喜ぶ歌に子供達はそっぽを向く。反対に、子供達が身体を揺さぶる歌なぞ騒音の範疇で、とてもジジババには歌とは思えない。

 沢田研二のタイガース(派手な装いのグループサウンズ)を紅白に相応しくないとして登場させなかった頃は、それはそれでNHKならではの「形の筋」を通した。しかし、年を追うごとにエスカレートした過剰演出による変貌は、まことに見るに耐えない。「夢よ再び」と追い続け
、時代の的をはずして空回りするその姿は哀れでさえある。
 紅白を見ないわけではない。お気に入りの歌手や歌の時だけ、頃合を見計らってTVをつける。ただそれだけだ。

 火曜日の午後8時からの「歌謡ステージ」は、今や唯一の演歌番組である。これはこれでいい。こういう番組に聴視料を使うのはいい。
 紅白も一本筋を通し、「日本の美しい歌・美しい楽曲・苦楽の情感ある歌を残し続ける番組」にしたらどうだ。そうしたら、家族で年取りをしている家庭では、揃って「ゆくとしくるとし」を迎えられる。
 歌番組でもないし、そうかといって質の高いエンターテイメント番組でもないただの大騒ぎするところへ、大事な聴視料を使われてはたまらない。
 一人でも多くの国民・家庭の支持を得た年越し番組を狙いとするなら、もっと多角的に現実の流れを見つめつつ、NHKとしての役目を表現すべきだ。
 放送局の割には、視点が定まっていない。

 さだまさし(グレープ)のアルバム「三年坂」以降、自分から進んで覚えた歌がいくつあったか考えてみた。
 高橋真利子の「ごめんね」・「メリジェーン」・「矢切の渡し」・「川の流れのように」・「さとうきび畑」・「なだそうそう」・「さくら」・「サライ」・「♪花を咲かそうよ」、と思い出しても30年間でおよそこんなものだ。自分の好みもあるから、アップテンポの曲は殆ど無い。
 若き時代は、2度も聞くとほぼ採譜出来た。3度めには譜面の修正も出来た。年もとったが、今時の曲は音符も言葉も多すぎてとても聞き取れない。時折いいなぁ~という歌も耳にするが、題名も歌手名も分らないから、そのまま過ぎてしまう。
 今の歌って、本当に日本人の感性に合っているのだろうか?と開き直る。先々残っていく歌が有るだろうかと取り越し苦労もする。
 「言霊」の国には、その国に馴染む歌があるはずなのだが。
 ここ歌の世界でも、「銭に踊らされた」使い捨てのコトバとオタマジャクシがさまよっている。
 

 家の前の道を、小学生が「もみじ」を二部合唱しながら帰っていく。実に微笑ましく、ほっとする。
 歌や曲は、「精神・心の血液だ」と改めて思う。
 紅白も万人受けを狙っても無理、そんな時代でないことは先に述べたとおり。日本人受けのする、しみじみとした晦日に相応しい番組を期待する。
 


本屋さんと雑誌やさん

街の本屋さんに行こう!

 ご幼少の砌から「本の虫」であることは、自他共?に認めるところである。
 本棚の前に座って、今ここに在る本をもう一度読み返すことが出来るかな?と思ったりする。そのくせ新しい本が増えていくのだから、それは何とも心もとないことである。

 横目で見ながら通り過ぎることができないのが、本屋さんと楽器屋さんであった。これはどこへ行っても変わらない。新宿では、僅かな時間があれば「紀伊国屋」に寄るというように。
 楽器屋さんでは樂本を見回してきたが、昨今弾いてみたいとか歌ってみたいとかいう曲や歌がなくなりトンとご無沙汰している。また、馴染みの楽器屋さんが店じまいしたりしていて尚更である。昔に比べ、「音楽」というものが少し家族から遠のいている気がするが、どうだろう。

 本屋さんも様変わりしている。
 タウンページで松本市の書店の項を調べたら、業者名で31あった。支店は入れてないから店の数は少し増える。古書店は11、これは書店との重複を除けば10以下になる。
 店数はともかく、書店を「本屋と雑誌屋」に2分しておきたい。いわば、専門店とスパーマーケットのような区分である。
 「良書」といわれるものをきちんと取り揃えてあるところが「本屋」である。
 週刊誌・グラビヤ・マンガ・センセーショナルな話題本など、売り上げ高追求で売れる本を前面に出しているのが雑誌屋である。

 良いも悪いもないが、どうも苦労しているのは「本屋」であり、その本屋も背に腹は変えられず雑誌屋の色合いを濃くしつつあるように見受ける。
 先日渚の「蔦屋」で、ある「岩波新書」の有無を尋ねた。サービスカウンターで要を得ず、担当者という人を呼んでくれた。再度尋ねると「岩波文庫」なるものを知らず、“うちの取り扱いにはありません”とのこと。
 おいおい松本で書店を開いていて「岩波文庫」も知らないのか!、とカチンときたが無理もないことと気付き抑えた。ディスカウント主体のスーパーマーケットで特定産地のA級の牛肉を欲しがったようなもの。本を売る人ではなく、本という「物」の単なる売り子なんだから。

 今、本屋といえる書店が松本に何軒あるだろう。
 子供の頃は、大名町の「明倫堂」・「鶴林堂」、本町の「高美書店」で事足りた。
 「明倫堂」は信大の近くに移転し医学書専門店になった。「鶴林堂」は南松本の店を閉め、本店が頑張っている。「高美書店」は区画整備がらみで本町から伊勢町のパルコ東の角に移り、井上新館の支店とともに、昔に変わらぬ内容で店を開いている。
 実際のところ、身近な教養書といわれる「岩波文庫・新書」・「中公新書」などの類、あるいは少し固めの本は「高美書店」でないと見つけられない気がする。「高美書店」に雑誌やマンガの類がないことはないが、それは品揃えの幅の一端に過ぎない。本屋としての構えは、「良書の取り扱い」を貫いている気がする。創業が寛政9年(1797年)というから、それなりに一本筋が通っているわけだ。
 子供の成長に合わせて読ませたい本もあるし、勿論探す楽しみと共に一生付き合える本が揃っている。こういう本屋は長くこの地に残って欲しいし、地元の人間が応援・利用していくべきだと思うが。 

 立ち読みも2分することができる。
 マンガや雑誌をその場で読みきってしまい、或いは調べ物を済ませてしまい、共に購入行動に結びつかないのが「盗み読み」である。
 何かいい本・面白い本はないかと棚を見回し、気になる題名の本を取り出してパラパラと中身を見るのが「探し読み」である。これは、購買行動に結びつくから本屋さんのお客である。
 本屋に寄るのは、この「探し読み」のためである。店側にしてもそうしたお客を待っている。
 マンガ・グラビヤ等に透明のビニールで封をされるようになったが、言うまでもなく「盗み読み」防止のためである。かってのビニ本はあのビニ本であり、封の狙いは他にもあった。それが、節操の無い人間が増えたがために、普通のマンガや雑誌にまで広がっっている。
 本の内容によっては仕方がない措置だが、ページのめくれない本を売る本屋は辛かろう。
 ブックロクサンは、「盗み読み」に加え列車の時間調整客が多くて店じまいしてしまった。あの店ならではの品揃えがあったから、残念である。

 もうひとつ、街の本屋さんの足を引っ張っているだろうものに、インターネットを使った新しい本の流通がある。これはこれで便利なこともであろう。しかし、中身が想定可能なものはカタログショッピングでも良いが、元来「本といわれる本」はそれにそぐわないものだ。
 いろいろな媒体の紹介から求める本もあるが、どうも後に残っていく本は少ない。選択の段階での、「脳の働きかけ」が乏しいからかもしれない。私の本棚を見る限り、「探し読み」の中から得た本が新しい世界を開いて来てくれている。
 本屋にしても雑誌屋にしても、ある面お客が鍵を握っている。
 「探し読み」もそうだが、「幅広い読書の世界を持つこと」は大変重要なことではないだろうか。
 これは親は親として、また子供に対してもしっかり受け継いでいかなければならないことではないかと思っている。

 いずれにしても、良いお客になって「街の本屋さんを守る」一端を担っていきたい。いままで十分に育ててもらってきたし、これからも育ててもらいたいから。
 「街の本屋さん」も店番をしているだけでなく、もっと前に出るような「店内・店外の戦略」を講じてほしいものだ。
 勤労感謝の日、お昼の12時15分頃大名町の古書店に寄ってみた。ドアーが開かない。ふと見ると「ランチタイムにつきご用の方はインタホーンを押されたい」旨の張り紙が下がっていた。
 店側としては古書店故の客の流れを承知した上でのことだろうが、観光客も通っている松本の看板通り、しかも目に付く店の構えでもある。店は店主のものかもしれないが、松本の街の一角をなして店を開いていることも、商いの根底にしっかり置いてもらいたいものだ。

 ひとつほっとするのは、かなり前から幼児向けの良書を扱う専門店ができたことだ。こういう、本屋さんも大切にしたい。

*彼の「十返舎一九」が松本を2度訪れているが、そのいきさつを述べ、またその時期の松本の
 町民文化の在り様を紹介している『一九が町にやってきた ー江戸時代松本の町人文化ー』鈴
 木俊幸著に、「高美書店」のことが詳しく載っていた。
 まさか十返舎一九が松本に来ていて、この地の人と交流を深めていたとは知らなかった。
 興味深く、面白い本である。よろしかったら、ご一読あれ。 
   
 

 

 


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